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ゆく河の流れは絶えずして

”ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず“なのだ。ここに皆さんに読んでもらいたい文がある。それは私が、自身の出身小学校の150周年誌に寄せた一文であるが、ここに引用したい。

時が経てば経つほど、記憶はフィクションに色づかれてくるものだ。60年もの月日が経過すれば、次から次へヴィヴィッドによみがえる記憶も、その鮮明さゆえにこそ、真実から遠ざかっていると警戒した方がよいだろう。それとは逆にあいまいな記憶ほど真実に近いような気がする。振り返る過去は後悔に、進みゆく未来は不安に占有され、真の姿を描くことは不可能に近いのかもしれない。

上記の引用の中にチラッと登場するミカンメ君は、小学3年生の時に転校していった。内気な子供であった私は不思議にミカンメと仲良しであった。彼は何か、おそらく複雑な理由があって一歳年上の同級生だった。目が細く吊り上がっていて、ちょうどミカンの一フクロのようだったので沿うあだ名されていた。苗字は確かT、名前はMだったと記憶する。一つ年上のせいで私より背が高く、坊主刈りであった。私の家にも来たことがあって、内気な私としては極めてめずらしいことであった。映像として記憶しているイメージは家の近くの田んぼを二人で歩いている場面だ。7,8歳のころだ。

そのミカンメは、ある日突然学校から消えてしまっていて,後から転校した事を担任より知らされた。その彼が私に電話をしてきたのはそれから30年近くも経ってからだ。その頃横浜市の南部にある公務員住宅に住んで、都内の国立大学附属中学校に勤務していた私に電話がかかってきたのは、教員生活にも疲れてしまい、日本脱出を本気で考え始めていた頃のある晩だった。その時ミカンメは、私が記憶するTではなく、Kと名乗った。彼はその時箱根のホテルで板前として働いていると近況を述べた。小学時代が懐かしくて、私の実家の電話番号を調べて、母から現在の私の電話番号を知ったと説明した。そして、その時かあるいは後の電話でか記憶が定かではないが、職場が鶴見の割烹料理店に変わる旨、会い易くなると言った。私は近い内に会いにゆくと安請け合いした。そのころの私は、忙しい勤務に疲れ果てていて、彼の店を訪ねたのは夏休みになったある日で、電話で話した時から2,3週間経っていた。(中断)


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