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心の中で小さく、さよならする時

学生の頃より愛してやまない喫茶店があった。

盛岡でも老舗の紅茶専門店だ。
ここに来るとカレーのスパイスの香りがし、店内も静かで美しく、時の止まったような風情がある。
年齢を経ても優雅で知的なマダムの佇まいが良い。

常連などではないが、かれこれ30年は通っていると思う。
「盛岡で素敵な喫茶店をあげろ」と言われたなら必ず入る店だ。

もうすぐ盛岡を去るので、今日久々に訪れてみたのだが、今日はなんとも言えない違和感があった。



遠くからずっと「ピコン」「ピコン」と電子音がする。
iPhoneの純正のカメラアプリの「録画」の時になる音。奥の席のカップルが熱心に店内や食べ物を写している。スマートフォンでおしゃれなカフェを撮る、それ自体は見慣れた風景になった。

そして前方にはパソコン作業をしている人がいる。キーボードで何かを入力しているようだ。喫茶店だから作業をすることもあろうが、正直いうと「ここでパソコン作業しなくてもよくない?と思う。客の勝手ではあるけど。

そして、奥からはまた「ピコン」「ピコン」「ピコン」「ピコン」の音。

随分と頻繁に録画しているようだ。
YouTubeにでもあげるのだろう。
女は店内の客をも含めた撮影をし始めた。正直いうととても気味が悪い。

もちろん私だって写真くらいは撮る。絵を描くこともある。だけど他の客に邪魔にならないよう、無音アプリを使うなどの配慮はできるのではと思う。
テーブルの上ならまだしも、客が映る店内を回して撮られるとびっくりする。

女は一度トイレに立ち、戻る際に階段を登りながらも撮影を続けている。
「ねぇ、あなたさ、動画撮り続けないと死ぬの?
階段から落ちたら危ないんじゃない?」と言いたい気持ちになった。


前方からは「カタカタカタカタカタカタカタ」…
打ち付けるようにしてキーを叩く音がする。
カフェで仕事をすることがかっこいいみたいに思っているのだろうか。と嫌味な気持ちになる。 
うるさいからスターバックスとかドトールでやってくれないか思う。


我ながら珍しくイライラした中、運ばれてきたお茶とスコーンは多分30年ほぼ変わらずだ。

いつものようにあたたかく、美味しい。

でもなんだか、寂しい。
あの、静かでリッチな時間はもう味わえないのかもしれない。

お店の空気っていうのは客が作るものだと思うのだけれど、今は「映える」ことしか考えない客ばかりになったのだろうか。自分が歳をとり、心が狭くなったということなのだろうか。

多分後者だと思う。私は、心が狭いのだ。(そうではないと信じたい。)



「このお店が大好きだったけど、もうさよならなのかな」
なんてことを思った。

これは私が好きだった空間じゃない。

寂しい。


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