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「アニメ聖地巡礼による空間価値の創出:アート・ワールドにおける背景美術の躍進と能動的オーディエンスという視点から」(雪村まゆみ著)を読んでの感想

アニメ背景美術にまつわる下記のような研究論文をたまたま見つけました。

「アニメ聖地巡礼による空間価値の創出:アート・ワールドにおける背景美術の躍進と能動的オーディエンスという視点から」
雪村 まゆみ(関西大学社会学部)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjas/23/1/23_A-21-026-R1/_pdf/-char/ja

アニメ背景美術に注目した研究自体が非常に少ない印象なので、アニメ背景描き兼アニメ背景マニアとしてはうれしく、興味深く拝見しました。
とても勉強になるとともに、アニメ背景好きとして感想を述べてみたくなったので、感想雑文を下記に記してみました。

「アニメ聖地巡礼による空間価値の創出:アート・ワールドにおける背景美術の躍進と能動的オーディエンスという視点から」を読んでの感想

背景美術への着目度が高まったこととアニメ聖地巡礼の隆盛についてなど、歴史をまとめつつ研究されていて興味深かったです。
小林七郎さんの「アニメーション美術」の技法書や、「アルプスの少々ハイジ」でのロケハン事例、「らき☆すた」での地域連携の事例、「君の名は。」等の新海誠監督作品の風景論など、幅広く聖地巡礼と背景美術関連のトピックに触れていました。
特にこの論文執筆時はまだアニメ映像化されていなかったであろう『デットデットデーモンズデデデデデストラクション』のマンガ背景の作画手法にも触れていた点が興味深かったです。(『デデデデ』は2024年劇場アニメ公開)
原作者浅野いにお先生の下記のような言葉を引用しつつ

舞台として町というものがあった上で、そこに暮らす人たちという順番になるので。景色とか背景の方が先にあっ て、むしろそっちの方がメインっていうこともある

漫勉 http://www.nhk.or.jp/manben/asano/

下記のように分析されていて、非常に示唆に富む指摘と感じました。

蓄積された写真をもとに背景を描きこむことで、それらは撮影された特定の場所から、人々がイメージを共有する理念的な風景として変換される。風景のイメージを多くの人が共有しているがゆえに、 読者は、背景を手がかかりに登場人物の過ごしている日常的な環境の意味を解釈することが可能になるのである。背景を自身の生活体験(あるいは映像体験)と照合させ、登場人物の生活環境の意味を解釈し、場合によっては自身の生活圏において 「聖地」をみつけようと試みるのである。

上記論文より

ここでも指摘されている「現実の風景」と「理念的風景」との関係に注目することが、アニメ背景美術を分析する際の重要な視座になると感じられました。
アニメ背景は、ロケハン写真などを資料として、現実の風景をもとに描かれることがよくある。現実の風景はそのまま引き写されるのではなく、個々の描き手である背景スタッフ、それらを統べる美術監督、そして演出家(監督)の幾層ものフィルターを経由することで「理念的風景」へと変換される。それゆえ描かれた作中の風景を見た視聴者は、自らの記憶にある共有された風景記憶を強く喚起され、その風景の中にいる登場人物の心情や置かれた状況を我が事のように理解し共感できるようになるのではないでしょうか。実際には一度も行ったことのない土地の風景であっても、アニメ作品の背景として描かれた風景を言わば「想像の故郷」として視聴者が感じ共有する。その経験によって「聖地」が生まれるのではないか、などと思いました。
「現実の風景」をもとに「理念的風景」が描かれ、それがまた視聴者の「聖地巡礼」により「現実の風景」にもう一度接続され一つの環となり、SNSでの広がりや地域との連携によりさらに環が広がっていく、、という動きについての概要研究としてとても学びがありました。

しかし一方でアニメ背景マニアとして、背景美術自体の分析に少し物足りなさも感じた点もありましたので、以下に私見をのべた雑文をと。。

アニメ背景美術への注目度の高まりと聖地巡礼とのつながりを考えるには、もうすこし背景美術自体の歴史の掘り下げもほしい気がしました。

論文の中では、小林七郎さんの1986年の著書のなかでの

「今まで存在価値がそれほど認められていなかった美術や音楽の役割についても、登場人物と並び、また超えるような在り方を求められるようになるでしょう」

小林七郎『アニ メーション美術—背景の基礎から応用まで』(1986)

という言葉が紹介されていました。1986年頃にはアニメ背景への注目が高まりつつあったことがうかがえます。

一方、私の調査では、アニメの視聴者に背景美術が注目されるようになったのは1980年頃の「銀河鉄道999」(美術監督椋尾篁さん)の美術がきっかけであったと知りました。

アニメ背景の注目度が高まったきっかけは、SF漫画を原作としたSFアニメ「銀河鉄道999」の美術であった、その点に注目したいと思いました。アニメの背景美術表現の歴史において「SF」と「世界観」というキーワードが重要になると考えました。

以前にたまたま見つけた論文『漫画の技法「背景」を用いた制作と鑑賞の授業に関する研究』(高林未央著)の中で、「SF」と「世界観」と「漫画背景」に関する興味深い研究がありました。

竹宮惠子さんが著書の中で「SF漫画は風景描写が多い」と述べているが果たしてそうなのかという問いをたて、実際に調べられていた。
『BLACKJACK』『銀河鉄道999』『エロイカより愛を込めて』『キャプテン翼』の四つのジャンルの作品に対して風景描写の割合調べた結果、順に65%、80.2%、43.7%、36.7%だったようで、確かにSF作品である『銀河鉄道999』が一番多いという結果だったという。
高林氏は「SF漫画といわれる『銀河鉄道999』は世界観を表すために風景描写の数が増える」と指摘されていました。
ここでアニメの背景美術が一般に注目されるきっかけになったのがSFアニメの『銀河鉄道999』の椋尾篁さんによる背景美術であったという話との符号を感じました。

また椋尾篁さんが80年代のアニメ背景美術の「高度化」について上げていたアニメ作品『地球へ…』(1980)は竹宮惠子さん原作のSF漫画だというところも何か符号するように感じられました。

1980年頃からアニメ背景表現の「高度化」がすすむとともに、その注目度も高まっていったと思われます。
1970~80年代当時の背景美術的なエポックメイキング作品を私的にいくつか挙げると、当時としては「遠い異国の地」の風景を描いた「アルプスの少女ハイジ」(1974)や「赤毛のアン」(1979)、当時よりも時代的に過去の日本の風景を描いた「となりのトトロ」「火垂るの墓」(1988)、近未来のSF的東京の都市風景や架空の異世界を緻密にリアリティーをもって描いた「AKIRA」(1988)や「オネアミスの翼」(1987)などがあった。いずれも背景美術表現が高く評価されています。
背景美術が注目されるようになった初期の頃の作品の中で描かれていた風景は、いくつかの例外を除いては「現在の目の前のありふれた風景」ではなかった、という点に注目したいと思います。

上記論文では「らき☆すた」を題材に「ありふれた場所の聖地化」について論じられていました。

アニメの聖地巡礼において注目すべき点は、もともと特別の意味をもたないありふれた場所であっても、アニメーション作品との結びつきによって新たな意味が生み出されるという点である。

上記論文より

そのほかにも作品のなかで描かれている背景として、バス停や学校帰りに寄り道をするファミリーレストラン「馬車道」、休日遠出をして遊びに行く繁華街としては大宮駅前など都市景観が掲載されている。実在する場所が背景として焦点化されることで、人々が日常生活を営む何気ない風景に新たな意味が与えられ、「聖地」 となるのである。

上記論文より

このように現代の「聖地巡礼」では「ありふれた風景(現代の、すぐ身近な、訪れることが比較的に容易な場所の風景)」が「聖地=特別な風景」として描かれることが特徴と言えそうです。
一方で、アニメ背景美術の注目度が高まった初期の頃には、「過去や未来や異世界のすぐ身近にはない風景」を「身近に感じる風景」として描いていた、と言えるのではないでしょうか。現代とはベクトルがまったく逆になったのではないか、とも感じられる点が背景美術史の研究において探求していきたいポイントと私は感じています。
「身近には無い風景」を「身近にあるように感じさせる風景画」として描く背景美術から、「身近なありふれた風景」を「特別な聖地であると感じさせる風景画」として描く背景美術へと、いかにして変遷していったのでしょうか?

「アルプスの少女ハイジ(1974)」から「らき☆すた(2007)」の間に、背景美術の演出上の役割や表現技法にいかなる変化があったのか(またはなかったのか)?
その点にまで踏み込んだ研究論文が読みたい!とアニメ背景マニアとしては感じました、という感想でした。

感想雑文終わります。

追加の考察

上記で述べたような話題を考える際に、藤津亮太著『アニメと戦争』と合わせて読んで考えると良い気がしました。

藤津亮太著『アニメと戦争』日本評論社


ものすごくおおざっぱに『アニメと戦争』での一部の内容をまとめると、アニメ作品の中で描かれる「戦争」が、戦中~戦後すぐあたりのころは「現実世界の戦争」が描かれていたのがだんだん変わっていき、「機動戦士ガンダム」(1979)の頃あたりから「架空世界の戦争」が描かれるようなっていった、そしてそれに応じて背景美術表現にも変化があった、と読める話しが先の著書にありました。

『アニメと戦争』の中で『ガンダム』のリアルさを構成する要素に「時間的奥行き・空間的広がり」を持っていること、例えば戦争に至るまでに経緯、戦争となっている場所が立体的に設定されていることが指摘されていました。
それまでの多くのアニメ作品では、主人公の周辺だけが世界の全てだったのに対し、『ガンダム』では開戦までの歴史的経緯や人類がどこでどう暮らしどう死んでいくかの長い歴史的背景が設定されていて、主人公たちの物語が始まる前にも後にも独立して存在する世界が描かれている。
今でいう「世界観」を持ったアニメ作品の誕生であったという。
その「世界観」はちょっとしたセリフのなかで表現されることもありますが、やはり世界観の表現を最も担うのは「背景美術」のリアルな描写力ではないでしょうか。
SF作品の架空の世界をあたかも現実のように「世界観」を持ったものとして描くため、80年代にアニメの背景美術は「リアリティ」を追求していくことになった、とも考えられるのではないでしょうか。
SFアニメ作品で描かれる「架空の未来戦争」という題材が、アニメの背景美術の表現をも変えていったのではないか、という考察してみました。

このような
「現実の戦争風景」→「架空の戦争風景」を描くようになったという変化と、
「身近でない異国や架空の風景」→「身近な現実の風景」を描くようになったという変化、
この一見逆に見える二つの変化をつなげ合わせて考えることで、アニメ背景美術の歴史変遷についてより見えてくることがあるのではないか、、など思ったりしました。

詳細はまた別の機会にゆっくり研究したいと思いつつ、、暫定的な分析を披露したいと思います。
1970~80年代にかけてが、アニメ背景美術表現の「高度化」の時期でありアニメ背景美術が一般に注目されるようになっていった時期でもありました。そしてアニメ背景美術表現の高度化は、遠い海外の風景や、過去の時代の風景やSF的架空世界の風景など、身近な現代にはない風景を「身近でリアリティを感じる風景」として描くために発展した側面があったのではないか。

例えばジブリ作品であれば、
「風の谷のナウシカ」(1984)「天空の城ラピュタ」(1986)~「魔女の宅急便」(1989)などが該当するだろう。

現代ではない身近に存在しない風景を視聴者に身近に感じさせるためには、視聴者が共通して持つ風景の記憶、共有イメージを強く喚起する必要がある。そのために誰もが共有する記憶を強く喚起させてリアリティを感じさせる「理念的風景」としてのアニメの背景画を描く技術が発展していったのが1980年代であったとすると、その技術をもって現代の目の前の身近な風景を描くようになったのが1990年代であったのではないだろうか。

例えばジブリ作品であれば、
「おもひでぽろぽろ」(1991)「海がきこえる」(1993)
「平成狸合戦ぽんぽこ」(1994)「耳をすませば」(1995)
などが該当するだろう。
これらは制作当時のほぼ現代の東京の都市の風景や地方の風景をリアルにそして非常に美しく描いていた。その点で、現代の東京や地方の糸守町の風景をリアルに美しく「理念的風景」として描いた『君の名は。』(2016)などにつながっていくものであったと言えるのではないだろうか。

アニメ作品の歴史において、またアニメ背景美術の歴史において、1980年代に一度、「架空の風景」を「あたかも現実の風景のように」描くための背景美術表現の高度化を経たことが、現代のアニメ聖地巡礼の隆盛につながったのではないでしょうか。
架空の風景を存在感を持った風景として描くための背景美術表現の進歩が、その後現代の現実の目の前の風景を描く際にも使用されていったことにより、「ありふれた普通の風景」をより一層「理念的な風景」として描くことが可能になり、アニメ作品を見た人を強く惹きよせる魅力的な風景描写となっていった。
「その場所に行ってみたい!」と感じさせる背景美術表現が現代のアニメ作品にあり、また実際に行くことができる現代の世界が作品の舞台の元である、という二つの条件がそろうことで、アニメ聖地巡礼の隆盛が準備されたのではないでしょうか。

などと考えてみたりしました。
雑な考察でしたが、お読みいただきありがとうございました。

おわり

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