秘蔵の棚からとっておきの本を出す:差別と分断とスタァライト
「国民に夢と希望を与える」大義名分で強行されたスポーツの祭典に、リアルタイムで踏みにじられている人々が居ることに怒りを禁じえない。
ここ最近はナショナリズムと金と権力に汚染されたその祭典が本当に嫌いすぎるあまりに、関与するもの全員不幸な目にあって競技場が爆発四散してくれないかなとまで思っていたが、現状は怒るべきところと別に怒らなくていいところを切り分けることで感情を平静にしている。
さて、そんな祭典には箸にも棒にもかからなさそうなスポーツを描いた一冊を、秘蔵の本棚から持ってきた。
本書は『紫色のクオリア』で知られるうえお久光によるSFラノベで、『紫色のクオリア』に比べると知名度は劣るものの、完成度や内包するテーマ性は『紫色のクオリア』よりも上だと思う。
簡単に言ってしまえば(ストリートスポーツとしての)パルクール(ハイロ―でルードボーイズがやってるやつ)にのめりこむ少年と、新時代の歌姫と持て囃される少女の青春と恋愛の話であり、ここだけ見ればライト文芸っぽいのだが、そこはうえお久光。
この世界のパルクールは、精神薬を服用し自分の肉体を機械だと認識させて最大級のパフォーマンスを発揮させる方式でやっているのだ。
何故そんなことをやっているのか……というのにはちゃんとした理由があるのだが、映像で観ないと伝わりにくいパルクールという競技をロボットアニメのような描写を交えて魅力的に描きつつ、人類の肉体の限界とそれを突破してさらなる可能性へと挑もうとしている人々の姿を半ば禁じ手ともとらえかねられないダイナミックな手法で表現している。
しかしそれとは別に、全体を通して強烈に横たわっているのは
障がい者と異なる世代をめぐる差別と分断
というテーマである。
本作の世界観は「感情を制御できず、感情が暴走すると共感覚に陥る」精神障がいを全世界の子供が持つようになったというもので、行政はそれを「障害」(原文ママ)と認定し薬品と矯正施設で抑え込んでいる。
そしてそんな障がい者たちが、感情をコントロールする薬物と生まれ持った共感覚の能力を利用して行われるのが前述のパルクール(作中ではヴィークルレースと呼称される)なのだ。
だからこの本はパラスポーツを描いたものといえるのだが、薬物をスポーツに利用するのは正規の使い方ではないからヴィークルレースはイリーガルな競技として社会から白眼視され、そもそも精神障がいを持つ世代そのものが社会の軋轢を生んでいるというのがキモである。
冒頭で述べられる「障がいを認めず主人公を献金パーティに連れまわしていた政治家の父親が主人公の障がいをはっきり認識すると急激に無関心になって献金パーティへの連れまわしをやめる」くだりなど、この世界の障がいに対する眼差しを感じ取れるだろう。
そんな自分達が「矯正」されるべき障がい者として扱われている社会構造に不満を抱き、自分の活躍によってヴィークルレースを世間一般に広く認知してもらいたいと思う主人公の情熱が見どころになっているのだが……一番うまいな~と思ったのが、実はそういう社会的な意識は建前に過ぎないと明かされるところである。
差別や分断から目を逸らすわけではなく、むしろそうした問題を踏まえたうえでどう生きるかを選び取るというのがハイライトになっているのだ。
さりとてすべてが堅苦しい作風ではない。
天性の歌姫としての才能を持ち合わせながら放埓な性格で周囲を振り回す少女ミクニとの恋愛、そして障がいと世間的な扱いに悩む彼女が選び取る決断、主人公のライバルであるヴィークルレースの絶対的な天才・キャップとの同性どうしの巨大感情など脇に散りばめられたエピソードと下ネタも魅力を放っている。
特にキャップとの関係性はレヴュースタァライトの純那と真矢とかが好きなら結構な確率で刺さると思う。(というか、これを書くにあたり再読したところ、割と話全体がレヴュースタァライトっぽいと感じている)
そして物語は差別と分断に満ちた世界に、ちいさく、しかし高らかな希望と可能性を提示して幕を閉じる。ベタな、あまりにもベタな希望であるが、それがゆえに胸を打たれるものがある。
長々と書いてしまったが、百聞は一見に如かずということで読んでいただくのが一番なので、この夏はヴィークルエンドを読んで社会から取りこぼされつつあるものに思いを馳せて欲しい。
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