天然天邪鬼

にゃにゃんです。この記事は戯言です。

小学校1年か2年の頃、担任の先生にこう言われました。

「君は天邪鬼だね」

先に補足すると、この先生は私の大恩師で、私はこの言葉に全く悪い意味を感じていませんし、悪意のない文脈で言われた言葉です。

このとき、小学生の私は「ふーん、てか、アマノジャクってなんだ?」程度にしか思っていなかったと思います。

思い返せばこの指摘は真に的確でした。

簡単に挙げられる例としては、高校生時代に趣味のルービックキューブでの選択です。なぜか王道とされる手順を覚えずにマイナーな手順を覚えて揃えることをしました。そのままずるずると来て、今でも王道の手順は覚えていません。

最近になってこの言葉をふと思い出して、天邪鬼という言葉の正確な定義を調べました。

概要を軽く説明すると、この意味で言われた天邪鬼という言葉には、「人の意に逆らった行動ばかりする人」という意味がありそうです。しかし、語源は民間説話に登場する妖怪といった存在で、その特徴は人の心を読むのが巧みで、それでいて人の意志に逆らって行動することだと言います。

私は思いました。私、人の心を読むのが大の不得手なのですが…と。とは言っても私を形容するのに天邪鬼ほど適した言葉を私は知りません。そこで、この言葉を造ったわけです。

天然天邪鬼

私はこの天然天邪鬼という特性は、おそらく人の心を察してわざと逆のことをするのではなく、現実に存在している王道をなぜか毛嫌いするという特性によるものだと推測しています。多くの人が私に助言をするとすれば、王道を勧めるでしょう。それに従わないから、天邪鬼と言われたのです。

天然天邪鬼という特性、正直に言うと、いや、当然ながら、実に生きにくい特性です。しかし、この特性が自我と密接に関係しているような気がして、生きにくいとは言っても力ずくで治したいとは到底思えません。

この特性に関して、一つ思い出したことがあります。情報科学における最適化などの分野で使われるマイナーな手法、ノベルティサーチです。

最適化というのは、何かの問題に対してなるべく良い、最適に近い解を求めることです。例えばカーナビやスマホのマップなどにもこの考えは使われています。現在地と目的地を指定したら最適なルートを高速に計算して表示してくれる、まさにあれがこの類です。

通常、最適化問題を解くには、現在の状態がどれだけ最適な状態に近いかの評価を使います。カーナビの例なら現在地から少し動いてみて、目的地に距離(道のりでない)が近ければ良いであろう、みたいなものを使うことが多いです。

一方、ノベルティサーチではこの評価を一切行いません。そして、評価の代わりに、新規性をただひたすらに追求します。カーナビだったら、この道はもう何回も探索したから、こっちの道を今度は探索してみよう、といった具合です。

ノベルティサーチは一見して最適化問題には全く向きそうにないですが、実は案外、条件によっては通常の最適化手法よりも良い性能を出すことがあります。

天然天邪鬼に話を戻しましょう。ノベルティサーチでは新規性を求めると言いました。これを言い換えれば、ノベルティサーチは王道を嫌うのです。一気に天然天邪鬼と話が繋がってきました。

情報科学の分野では、「局所的最適解」と「大域的最適解」という言葉が出てきます。大域的最適解が真の最適解、つまりこれより良い状態は絶対にない状態であるのに対し、局所的最適解は一部の領域を見た場合の最適解、つまりもっと広い視点で見たらもっと良い解があるかもしれない状態です。

ノベルティサーチは、評価という先入観をなくすことによって、大域的最適解を探してしまおうという試みです。

人間は、これまで様々なルートを文字通り人力で探索してきました。学問の履修をする順番、勉強の仕方、そしてルービックキューブの揃え方まで。その結果、王道とされる道がだんだんと見えてきたわけです。

王道は本当に最適なのでしょうか。

人間は到底、何かの問題において全てのパターンを調べることはできません。例えば将棋などのボードゲームなら、明らかに悪そうな手を深く読んでみることなど、誰もやっていないでしょう。でも、もし仮にその手が実は良い手だったら…?

人間が人力で作り上げた王道は、考えうる全てのパターンを十分に調べてきた結果ではありません。もしかしたら大域的最適解とはかけ離れた局所的最適解であるかもしれません。

ここまで長々と書いて結局言いたいことは、「私のような人間も、社会の様々な問題の最適化にもしかしたら役に立つのかもしれない」ということです。そこに、どこか私が生きる社会的な大義名分を求めています。

おそらく私は今後、かなり特殊な生き方をするでしょう。そして生きづらさを常に抱えていることでしょう。しかし、これもいつかどこかで社会の役に立てば私は嬉しいです。

まあ、生きることに大義名分を求めること自体がナンセンスだという意見もありそうですが…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?