見出し画像

西尾幹二『戦争史観の転換』を読む②

具体的な内容特に、歴史についての評価、新たな視点については、ネタバレもあり、じっくり読んで頂き、考えていただきたいところですが、西尾幹二先生の持論で繰り返されている一節は、評者も従来から非常に共感する部分です。(カッコ内は連載の通番)

日本で認められ読まれるのはアメリカ革命が平等・人権・民主主義への道を拓いたという明るいプラスの面ばかりで、そこに加えて現代政治の恐怖を煽る強大な軍事力がつねに陰に陽に暗示されているので、アメリカに関する自由な思考が育たない。アメリカを疑う思想はアメリカ図内にもあるのに、日本には紹介されない。

(連載3)

後期水戸学の会沢正志斎は敏感にかつ正確に見るべきものは見ていたといえるだろう。維新に入ってからの日本人には見えなくなっていたものを見ていた。

(連載3)

ヨーロッパの五百年遡及史の試みは西欧を見直すためではなく、日本の歴史を複眼で捉えなおすためにもっと利用されるべきである。

(連載5)

500年くらいは射程に入れないといけない。正面から相手を見るだけでなく、アメリカやイギリスの背中を見ることから始めなければならない

(連載6)

このことを西洋の歴史家は書かない。本当に書かない。西洋の歴史に自分を寄り添わせている大抵の日本の研究者も書かない。

いずれも西洋の内部の歴史の必然性とそこから見た世界史については影響の大きい思想を示しているので、日本の研究家は一生懸命それを日本史に当て嵌めている。明治以降培ってきた「内なる西洋」はもちろん十分に対応能力を持っていると思うがわれわれにとって大切な問題が始まるのはそこから先ではないか。

(連載10)

今のわれわれは内なると外なるの両方への複眼を持たなくてはいけないのだ。ウォーラスティンやブローデルがいくら近代世界に新しい歴史解釈を持ち込んでくれたからといって、彼らに科白をつけられて、またしても自らの歴史を西洋中心史観で語ることは慎まなくてはならないと自制するもう一つの自分が必要である。

(連載10)

ところが日本の大概の学者はそう考えない。あくまで西洋が先を歩んでいて日本は救いがたく遅れていた、そういう観点に囚われている。(連載10)
異質な文明同士の並列と等価値が相変わらずわかっていない進歩主義史観の迷妄である。

(連載10)

日本の学者で反旗を翻す者はいない。西欧の学者にのみ自らを世界の中心の座標軸と考えたくなる環境が与えられているのである。フェルナン・ブローデルやイマニュエル・ウォーラスティンが最近では日本の歴史の学問の規矩準縄になっているさまを見るがよい。

(連載11)

日本の知識人は相当程度にキリスト教の理解者であろうとしている。教義としてのキリスト教に関心が深い。けれども大半は信者にならない。それでいてヨーロッパ キリスト教世界の歴史に自己の歴史を無反省に寄り添わせてきた。日本の歴史に関する説明の泉をヨーロッパ史から汲み取ってきた。が、二つの歴史像は近づけても重なることはない。時代が遠くなると、ますます大きく距離を開いてしまう。別の文明なのだから当たり前である。それでいてヨーロッパの「近代」は模純であり、尺度でありつづける。

(連載12)



(トップ画像は西村幸祐氏のチャンネルのでの講演の画像。記して謝す)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?