しがらみの手触りのこと


 10代の間はしばらく近くにいた人のことである。

 その人の名前は上から下まで字面も読みも端正で、私は、その人の名前を呼ぶために何とかして仲良くなりたかった。
 しかしながら、黒目がちの瞳に見返されると気が引けてしまったし、自分より白い肌にいつも少々面食らってしまったし、そのせいか、いつの間にか私よりはるかに上に位置するようになった表情も声色もあまり読み取れなかった(5年以上学籍を同じにしていて、学内行事も会話もあったのに、好きなロックバンドがあったことくらいしか属人的な特徴を見つけられなかった。)。
 あるいは、自分自身の苗字も名も好きになれなかった私にとっては、その人の名前は、口に出して呼ぶたびに、口に出して認めてはいけないうらやましさを呼んできたからだったのかもしれない。
  こちらの話を最後まで黙って聞くことができる人で、嫌味を言うこともなく、茶化すこともなく、肯定や慰めを求めることもなく、なんというか、執着とか悪意とか恥とか見栄とか葛藤とか、いわゆる思春期にありがちな単語とは無縁のように見えた。同年代の中では、とりわけ、まあるく、まっすぐに歩いていく稀有な人、というのが私の中での彼の印象だった。

 怖くなかったというのが主な理由で、友人以上の好意を抱いている期間はそれなりにあったのだが、壊滅的にタイミングが合わなかった。
 が、今では、「タイミングが合わなかったから」というのは、言い訳にもほどがある評価だったと自覚している。


 狭小な世界をようやく生き抜いた後も、彼との間で、かぼそい友情みたいなものは続いていたのだが、ある時、交際を提案された。あまりに予想外の事態に驚きすぎて、何といわれたか記憶がない。
 なぜ、今頃、私のどこを、本気なのか、私とどうしたくて、と質問攻めにしてしまったが、相変わらずにまあるくまっすぐ歩いているらしい彼は「だって好きだと思ったから」と答えてくれた。

 しかし、結局のところ、私はこの提案とそれに続く関係性を有耶無耶にした。不誠実極まりない。
 何故かというと、歴史になりたくなかったからだ。
 私は彼の数年間にわたる交際の経過と相手を目の当たりしていたし、同じように目の当たりにしている知人がいた。噂を形成できる程度にはいたのだ。ようやく別れを告げた狭小な社会で、私自身も歴史として誰かに評論されうる(可能性がどれだけあるのかわからないし、あったとしても著しく低いだろうが)と思うと背筋が寒くなる思いだった。
 あの頃の私は、それこそ思春期にありがちな単語を全部引き連れてぐるぐる巻きになっていたから、タイミングや文脈をぶった切って好意を伝える度胸もなかったし、永遠に続くように思える狭少な社会で、世論は、私にとって到底無視できるものではなかった。狭い社会を行ったり来たりしているだけの間は、他人から認められる正当性を守ることに必死だった。
 その時の息苦しさがブワッとよみがえってきて、言葉が詰まってしまった。

 以上が、私の中で「しがらみ」という言葉に温度と手触りが生まれた経過である。
 しがらみというのは、小学生の頃にやらされた綱引きの綱みたいに、太くてかたくて、ざりざりしていて、強く掴むと手のひらが真っ赤になって、
びくともしないのに引っ張ったり引っ張られたりするものだった。暖かくもないし冷たくもなかった
 今となってはそのほのかな恋情を抱いていた頃の倍以上を生きようとしているし、極めて不誠実な対応からも相当の期間が経過してわすれてしまいそうだから、記録しておく。 


 先日、予感を抱きつつディズニーランドまで行ったものの、同行者の拠所無い事情によって入場前に解散するという夢を見た。
 その同行者というのが彼であったのだが、彼が、私とふたりでディズニーランドへ行く前日に女性から好意を告げられ、なるようになってしまったというのだ。(開演前のゲートで打ち明けられて発覚するというのが夢たるところである。)
 「なんと、まあ・・・」と言いながら、そういうこともあるだろう、仕方ない、めったにない機会が残念だった、と怒ることもなく思いつつ目が覚めた。夢なので。
 出会った場所が違ったら、英知とお金と手間暇のたんまり詰め込まれた夢の王国を二人で楽しむこともあったのかなあ・・と思うものの、ボーイミーツガールやプリンセスが苦手な私はやっぱりUSJの方が合っているようにも思う。

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