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劇場版「ゆるキャン△」を見た話

彼女たちはかつての面影を残しながらも成長した姿を私に見せた。

原作の漫画からTVアニメ、TVドラマと幅広い媒体で老若男女問わずあらゆる層の人々を魅了する「ゆるキャン△」がスクリーンにその場所を移し、今月頭から全国各地で上映された。

かく言う私も「ゆるキャン△」のファンであり、漫画やTVアニメを楽しんできた。さすれば劇場版を見に行くのは当然のことであり、公開日を楽しみにして日々を過ごしていた。

先に言ってしまうとこの劇場版が非常に良かった。
原作より数年先の未来を舞台にした設定に賛否両論あるかもしれないが、私は劇場版「ゆるキャン△」をひたすらに肯定する。

なぜ、彼女たちは他人を「肯定」するのか。

正直言うと私はあまりキャンプが好きではない。
仲間から誘われたら同行する程度で、決して自分からしようとは思わない。車のトランクにキャンプ道具は積んではいるが、出先では専らビジネスホテルに泊まることが多い。

果たして最後に使ったのは何年前になるだろうか?
それすらも忘れてしまう程に私の中でキャンプは久しい存在となっているのが実際の所である。

言うまでもないが「ゆるキャン△」はキャンプが主題の作品である。
それなのになぜ、キャンプをしない人間がnoteで本作についてキーボードを走らせるのだろうか?
各務原なでしこが可愛かったから?
志摩リンの一人で行動する姿にシンパシーを感じたから?
単に女子高生の日常物が好きだから?

列挙したそれらも確かにこうやって記事を書くに至ったファクターではあるが、私はなによりキャンプを通して築いた「ゆるキャン△」の世界観が好きだったから、こうして筆を走らせて本作への思いを書き綴るに至ったのだ。

「ゆるキャン△」は基本的に人を肯定し、否定することはない世界だと思っている。

現代社会を生きる私たちは常に誰かの「否定」に晒されている。
その誰かの「否定」に対して私たちはどうやって折り合いをつけて妥協をするのか、それとも人間関係に歪みが生じても構わず反発するのか。そんな息苦しい世界の中で私たちは日々を生きている。

仕事、人間関係……あらゆる物事に「否定」が付きまとう。それは人間が知恵の実を食べて以来決して終わることがない対立の根源だ。

「ゆるキャン△」はその「対立」を基本的に描くことは無い。
他人のスキを、行動を決して否定せずにひたすらに肯定する。
あの作品世界ではその姿勢が貫かれているから、私は「ゆるキャン△」が好きなのだ。

私はこのテーマを思い浮かべる際、非常に印象に残っている場面があり、それを紹介したいと思う。
それは伊豆キャンプ編でのことだ。

鳥羽先生は野クル部員とリン、恵那、あかりを含めたメンバー全員が乗れるミニバンを用意した。
ミニバンという車は多人数の人間と荷物を載せるにはこれ以上ないくらいの乗り物だ。
グループでキャンプに行くならば猶更だろう。複数人がまとまって行動できる利点はもとより、同じ空間で気の置く必要がない友人達と過ごす時間は後に「思い出」にもなるだろう。

伊豆キャンプにおいてはこれ以上がないほどの「正解」な移動手段なのだ。

しかし、リンは愛車の原付で参加したいと願い出た。

彼女の提案にはいくつかの懸念点が存在する。


一つ目は時速30km/h制限のある原付で山梨から伊豆まで走る過酷さに加え、随伴する鳥羽先生もその立場上、リンの原付に合わせて車を走らせなくてはならない必要が生じること。

二つ目は集団行動という視点から見ると一人だけ違う行動を取ることは我が出すぎた行為であり、それは最悪関係性に軋轢が生じる可能性が出る恐れがあること。
集団行動を取る際にしてはならないのが、その輪からはみ出て単独行動を取るということである。それは仕事以外でもそうだが、そういった人間は少々煙たがられる事が多い。
本当ならば自分の願望を通したいが、それが誰かの妨げとなるならば波風を立てずに妥協する。それはこの社会に生まれた人間ならば一度は経験する出来事である。

しかし、仲間たちは何も言わずにリンのスキを肯定した。

先述した懸念点などそもそも彼女たちには存在しなかった。
そもそも「懸念点」というのは私みたいな擦れた大人の意見……すなわち「否定」そのものであり、それはリンのスキを「否定」していることになる。
なでしこ達はリンのスキを「否定」する気など毛頭無いのだ。なぜなら友達のしたい事を「否定」するのは彼女たちからすれば異論であり、その逆。つまりはリンの事を「肯定」することが当たり前のことなのだ。

私はこの件に触れた時、これが「ゆるキャン△」の真髄なのだと思った。

先述した通り私は「ゆるキャン△」は他人を否定しない世界観で構成されている物語だと解釈している。

女子高生の娘が原付で遠出しようが人気のない場所でソロキャンプをしようとしても一切止めることなく、むしろ応援する家族や、仲間内で結成されたグループに属していない人間が活動に参加してもそれを咎めない姿勢。
キャンプという資金がかかる趣味の為に各々がアルバイトに時間を割き、次第に予定が合わなくなって全員がそろわなくても、誰も一人ぼっちにはさせない世界。

他にも多くの「肯定」があの世界観には溢れている。
それは対立の根源たる「否定」が存在しないために人々の関係性に軋轢が無い理想郷のような世界だ。
だから私は「ゆるキャン△」が好きなのだ。あの世界観を……誰も「否定」をせずに「肯定」する優しいあの世界観に触れたくて私は本作を観続けているのだ。
それがあらゆる層の人間を「ゆるキャン△」の虜にする所以だと思っている。
そして、その他人を「肯定」し続けた世界の可能性の一つが「劇場版」なのだ。

「この火、私たちの火だよね」

劇場版「ゆるキャン△」は原作から数年先の未来という時間設定で構成された物語である。
女子高生たちがキャンプをする姿が魅力の一つである本作においてそのような設定で物語を構成したのはある種の冒険のように思えた。
「女子高生」という存在がキャンプをするという要素が好きで「ゆるキャン△」に触れている人間もいるし、なにより未だ可能性の欠片である彼女たちの未来が決定付けられてしまうのだ。いわゆる「解釈違い」として大人になった彼女たちの姿が受け入れられなくて劇場版自体を「否定」する人間もいるだろう。

しかしながら、私は劇場版の設定に抵抗感はなかった。
悲しいことだが私はすでに高校生でもないし大学生でもない。劇中の彼女たちのように社会の歯車の一員として日々労働に勤しむ人間である。
そう、つまりは彼女たちと自身の環境が一致した事でその抵抗感が薄れ、よりすんなりと感情移入が出来たのである。
キャンプをする姿に感情移入できなくて、ああいう働く姿の方にできてしまったのは本当に悲しいことであるが……。

そしてこの設定こそが、私が劇場版「ゆるキャン△」を肯定した所以である。
原作の漫画は今も連載が続いているため、なでしこ達は女子高生の日常を謳歌し続けている。その「先」を提示しない限り彼女たちはその日々を過ごし続けるだろう。変な言い方だが、現段階だと高校生のまま時が止まっているような感覚だ。

しかし劇場版では「その先」つまりは大人になった彼女たちの生き方を提示した。

ライフスタイルも随分変わった。
彼女たちは自動車免許を取り、マイカーを所有して日々の足にしていたし、リンも祖父のトライアンフで週末を駆けていた。
話は逸れるが「自動車」というのは大人という存在を象徴するアイテムだと個人的には思っている。
かの名作「少女革命ウテナ」でも世界の果てを駆ける為に登場したアイテムが自動車であり、それを運転できるのは大人である鳳暁生のみ。同乗する冬芽達がいくら大人びていようが18歳を越え免許を取得しないと運転ができない存在だった。彼たちは唯一ハンドルを握れる暁生の隣で車に乗り大人になった感を感じることしかできないのだ。
「ウテナ」だけに限らず「ゆるキャン△」でも大人である鳥羽先生や桜が車を運転しているが、なでしこ達とは明らかに一線を画した大人という存在の象徴として自動車を登場させている。
話を本筋に戻すとリンはスマホにセットしたアラームで起床し、満員電車に揺られ名古屋へ働きに出向くという、この国で幾人もの人間が行っている労働に勤しんでいた。
高校生には程遠い、社会の歯車の一つだった。

そう、あの世界観で時を動かしたのだ。

久遠のように感じる女子高生である時間を動かし、緩慢でありながら矢の様に過ぎ去る社会人の時間に彼女たちを導いた。

さすれば私が気になったのは、あの誰しもが他人を「否定」しない世界において時が経っても「そうあり続けられた」かということだった。

その答えは劇場版のキャッチコピーで示されていた。

「この火、私たちの火だよね」
その一文と共に高校生の頃と変わらぬ面々で焚火を囲み談笑している彼女たちの姿があった。

「この火」とはなでしこ達が高校生から社会人になっても続いた友情を示した物だと私は解釈している。

人は流れゆく時間の中で出会いを繰り返し、同時に別れも経験する生き物である。
私だけに限らず高校の頃仲良く話していた人間が卒業を機に違う進路に向かい、そして疎遠になっていったということはないだろうか。
毎日話をしていたのに、今では連絡先すら知らない。いや、知ったところで何を話すのか……。
それが人との別れであり、何かの機会でもない限り再び会うことはないだろう。

先述した通り劇場版「ゆるキャン△」では高校生である彼女たちの時間を進ませ、少し未来の設定にした。
その時の流れが果たして幾年だったかは分からないが、かつて一緒にいた人と疎遠になってしまう程の別れを経験するには十分な時間だったであることは推察できる。
高校を卒業し、それぞれの進路に向かい、そしては就職するまでの時間。
その節々には「別れ」のタイミングがあり、野クルやリン、恵那が疎遠になる場合もあったはずだ。

しかし、彼女たちはその友情を途絶えさせることはなかった。
忙しい日々の合間を縫って山梨に集まりキャンプ場を設営した。
設営が危ぶまれる事態もあったが、誰も責めることなく皆でどう乗り越えるかと思案していた。

これは友情が確かなものでないと出来ないことであり、それが不確かなものであるならば完成には至らなかっただろう。
離れ離れになることを「否定」せず、仲間のやりたい事、なりたい物を「肯定」し、遠くの地でお互いを思い続けたからこそ続けられた友情なのだ。

その長い時間を経ても消えることがなかった友情は火のように暖かなものであり、その象徴なのだ。

「この火、私たちの火だよね」
そう、その火は彼女たちの友情の証なのだ。

キャンプを通して出会った高校生達がその友情を絶やすことなく、大人になってもあの頃と変わらず焚火を囲み昔の様に会話をする。

それはお互いを思い合い、肯定したからこそ出来た世界観であり、その暖かさの一端に触れられて良かったと思う。












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