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シール恐怖症

 完結した記念にヒロアカを一から単行本で読み直し終えたのですが、本編以上に自分にとって驚いたことがあった!


 なんと堀越先生がカバーの折り返しにて「シール恐怖症」と書いておりまして、なんとこの感覚は(恐らく)僕と同様である。ずっと、ずっとシールって苦手だなと思いつつ、他人と共有できなかったモヤモヤが晴れた!
 もちろん、以降の話は僕の感覚であって堀越先生がそうかは定かではないですが。
 この感覚について少しだけ書いてみましょう。

 子供の頃からシールが苦手であった。5歳くらいのころには、もうかな。貼られていない状態は平気で、どこかへ貼られた瞬間に苦手になってしまう。
 たとえば、幼少期の実家にあったゴミ箱へベタベタとポケモンのシールが貼られていた。たぶんポケモンのシールを欲しがったのは僕で、ある程度集まったところで母親が適当にゴミ箱に貼ったのでしょう。
 それを見て、僕は「どちらの価値も無くなった」とはっきりと感じる。シールは貼られてしまうと自由に持ち出せないうえに場所や見え方が固定される。貼られていない状態で並べてうっとりする、指でくるくるしてキラキラ感を堪能する楽しみが消失した。よりによってゴミ箱が対象だから、せっかくのキラキラを味わうためにはゴミ箱を持ち上げ回転させなければならない。ポケモンシールのイラストを眺めるにノイズすぎる。
 そのうえでゴミ箱のデザインも損なっている。ホームセンターで1000円もしない、ただの黒い円柱でしたが、その黒さをぐちゃぐちゃに貼られたシールたちが塞いでおり、僕の中で「これはマジでダサい」と幼心に刻まれたのですね。
 そのうえ、適当に貼られたシールはたいてい時間経過とともに、色が薄くなったり剥がれたりして、とにかく汚くなる。とうぜん同級生たちも子供なわけで、部屋や持ち物にたくさんのシールが付着し、しかもどんどん汚くなる。特に64やゲームボーイのカセットは自分にとって、あの灰色な工業感含めて完成系で、カセットへシールや名前を足す(またはそれを強制する親)ことは、明確に「無粋な行為」であり、嫌悪感すら抱いていた。
 なのに、子供と親は妙にシールが好きで、他人の家の机やタンスには半分くらい剥がれたサンリオなりポケモンなりのシールが放置されている。これはデザインを、美観を損なっているというレベルではない。けれども、この不快感を他人に話しても誰も気にしない。いつしか僕はシールやステッカー自体を「触っていけないモノ」と認識してしまった。
 しばらく時は経ち、10代中盤くらいからはステッカーが流行る。身近なスマホなりにオシャレなマークやイラストを貼り、自身の感性や所属をアピールする。特に大学生以降では、iPadやノーパソの背面に貼る人たちが多い。
 あれはもう無理だ。iPadやノーパソの背面こそ、シンプルであればあるほどデザインとして纏まっている。僕はもうスマホにカバーすらつけていない。これは一色、またはグラデーションが綺麗なの。そんなグラフィティ文化のようにステッカーをベタベタと貼るのはナンセンス。そこに貼ったお気に入りのイラストやマークを、他人へ少しでもきちんと発揮する誠意があれば、ベタベタと治安の悪さを連想させる見せ方をするだろうか。
 どうしてもそのような嫌悪感を覚えてしまい、自分が粘着質なものを触ると若干の悪寒が走る。テープとかはいいけど。家具や家電の注意書きシールもできるだけ剥がす。デザインを損ねるから。販売元としては仕方ないが、ユーザー側はそこは重視させてもらいたい。

 つるつるとしてなさい、つるつると!
 色は、シンプルに視覚へ訴えかける意味がある。

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