見出し画像

一口エッセイ:「逆張り」の研究

 まだまだ暑さは僕の体調を回復させてくれないようで、今日も一日病床に伏すこととなった。それはともかく、暇は暇なので一冊本を読んでみることに。今回の一冊はこちら『逆張りの研究』です。幼かった自分の傷が抉られてしまいそうで、ワクワクする書名ですね。

 「逆張り」は、本来投資用語で相場の環境や市場人気に敢えて逆らって投資することでして、そこから転じて、ネット上で話題のモノに対して斜に構えた態度をとる人間たちが「逆張りオタク」と揶揄されるようになりました。
 ネットスラングとしての「逆張り」はSNSと相性が良い。大衆が夢中になっている巨大なモノに反抗する高揚感、同じ意見を持つ仲間で固まっていく一体感、とにかく「何かと戦っている」感覚を得ることができる。特にテキストだけで、そのような行為が可能なTwitterとはもう相性抜群でしょう。現に、この本で挙げられている例はほとんどがTwitter上の出来事だ。過去の自分に重なる話もあり、耳が痛い。
 結局、逆張りしているオタクたちも、その逆張り集団の中で馴れ合っているのだから、「寂しい・誰かに見てもらいたい」部分は同じだよな……とは皆、薄々思ってはいたでしょうが、そのような柔い点も言語化されています。本当に耳が痛い。しかし、こうして逆張りや冷笑自体がダサく見えてくる時代になったのだから、世界はゆっくりと変化していってますね。今の若者は匿名掲示板のネチネチした陰鬱さを知らずにネットを楽しんでいる人も多く、もっと素直な印象を受けますし。
 さらにアニメアイコンへ刺さる話としては、「批評家ワナビー」についてでしょうか。これはは作者が若い頃に陥った「批評しぐさ」を例に挙げており、例えば「あの作者は賞をとってからぬるくなった」など、とりあえず人気や権威ある作品や作家を貶してボロクソに言うことで、本人の中で批評をした気持ちになってしまう現象。要するにただの拙い逆張りであり、その作品に「ある」点を見つけるより「無い」点を叩く方が何千倍も楽で誰にでもできるわけで(書いてないことを指摘するだけなので)、そんなことに意味はない……が人はついついやってしまうと赤裸々に書かれている。
 筆者は「東野圭吾とか村上春樹とか全然面白くない。西尾維新はまだマシかな?」と言ってくるサークルの全否定先輩の話を書きつつ、自身も学生の頃はほぼ同じ状況であったことを自虐的に皮肉って「ちっちゃな頃から逆張りで、15で批評と呼ばれたよ」と名文を残しています。この痺れる一文に辿り着けただけでも、筆者の葛藤や迷いが伝わってきて手に汗握る。
 同じように、「冷笑」タイプのオタクの話も多く、これはシンプルになんでもバカにして欠点を指摘することで、なんとなく頭良さそうに見せている人たちである。逆張りとほぼ同等に見えつつ、こちらはもう少し格好がつくので、20代後半以降でもわりと見かける。教室の後ろで腕組みしながら、「なにコイツら無意味なことに必死なんだ?」「こんな浅いもののどこに本質があると言うのか」と斜に構えているかぎり、いつまでも「全てを理解しているまだ力を見せていない強キャラ」を演出できるのだ。俺はまだ本気を出してないだけ……。
 もちろん、本書では実例を出しながら、冷笑の悲哀にも触れられており、「全てを否定しているうちになんでも疑うせいで、自身が成長する機会を失っている」という指摘は鋭く思える。逆張り・冷笑に生き甲斐を感じすぎて、人間やコンテンツのすべてを疑い続けるようになったアカウント、周りに居たりしませんか?
 そんな残酷な真実が書き連ねられていて、たいへん僕は楽しめた。反省や後悔を何度も噛み締めながら。
 僕らは、現実に居場所がないからネットに齧り付いた。現実で人間性を獲得できなかったのだから、SNSの世界でもまず失敗するのは当たり前だし、そうやってぶつかったり間違えたりすることで、初めて「現実的な人間関係」を知り、成長していく。逆張りや冷笑によって「個性」を得ようとしてしまうのも、反抗期や思春期が誰にでもくるように、ネットを数年浴びると避けられない問題かもしれない。ある意味、必要な期間でもある。自分がされたらムカつくが、若者はそんなものだと器の広さの見せどころで、もうおっさんである同年代や歳上にやられるとただただ悲しいけれど。
 一番良かった点は、筆者がこうしたSNSの不毛さに疲れて、Twitterを辞めていることだ。たしかに、こうしてSNS上の議論の無意味さを指摘したからには、自分が実際にTwitterから身を引いている事実が最もカッコいい。僕もいずれそこへ辿り着きたい。地獄を見れば心が渇く。戦いは飽きたのさ。

サポートされるとうれしい。