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結局人生は頑張るべきなのかについて

 だらだらと汗をかいた後に浴びるシャワーは一段と気持ちがいい。
 この世界では「頑張らないと将来不幸になる」と「他人に左右されずのんびり生きよう」の真逆な意見がつねに飛び交う。結局、人生は頑張ればいいのか怠けていいのかについてよく考えてきた。自分なりの経験と答えを書いていきましょう。
 説明の過程をすっ飛ばして結論を書くと、「宗教観=死生観によるね」ではある。神や仏への信仰心というより、死後の世界または輪廻転生をどう捉えるか。これまたまずは説明を省くと、僕は仏教やヒンドゥー的な魂の輪廻、神仏のような超常的な存在をうっすらと信じており、魂が回転するのだから、次の世界や涅槃に到達するため、現世でも自分なりの真善美を見つける必要があると認識しております。
 つまるところ、僕は自分の魂が来世や死後の裁きで評価されると信じて努力を積むことが結構ある。これを社会的な視点で見ると「身を粉にして頑張っている」とも言える。経済も税もそれなりに回している自覚はあるし。けれどもどこかへ所属していたり、家族がいるわけでもないので、「社会人」から見ればよく分からんように見えてもおかしくはない。そこはどちらでも良い。
 とはいえ日本人の多くは無宗教であり、よく言われる「バチが当たるのは避ける程度にうっすら神道の教えを守る」感覚であるでしょう。僕が引っかかっている点として、宗教観やスピリチュアルな概念の無い(ありすぎても困るが)一般人は死後はそのまま天国も地獄も来世もない、デスノートで学んだ無常/無情さを持っている。ネットが発達した現代において死後がどうのこうのと話すリスクも少なくない。
 死後が「無」であるなら、現実はのんびりでも良いと思う。頑張っても頑張らなくとも等しく土に還るのだから程よく生きるとちょうどいい。多くの人間はこの立ち位置につくのではないか。神が見ているわけでもなし、ゆったり家族や恋人、友人と笑ったり泣いたり、時には喧嘩する日常を重んじる。それが「人間らしい」とも感じ、大切なこととも思う。逆に、その立場なのにイライラで仕事や周辺人物へ攻撃的になっている人には、矛盾を感じている。誰しも程よい場所に落ち着けるなんてあり得ないけど。環境は日々変動していくものだし。
 逆に、死後のために進んで苦行を極めればいいと考える者もいる。それには仏陀がすでにナイスな解答を出している。さすが超越者はすごい。「中道」なる、右にも左にも寄らない、「楽しすぎてもダメだけど苦しいだけでもダメだろ」と非常に正しい概念を残した。自分がどちらかに傾きすぎた場合、どちらの場合でも仏陀視点では愚かであることを意識するといいかもしれない。その時点で2割くらい仏教徒ではないか? まあいいか。
 生物的な面ではどうか。これは死ぬほど単純。生き物として見るなら、努力すればするほど成長をする。週3でジムに通っているので心身ともに実感する。少なくとも肉体は駆使すればするほどタンパク質を利用し、より強く再生する。動物であれば有利に狩りを堪能するため強ければ強いほどよい。身内での立場も強さに応じて自動的に上がっていく。人間社会でも働けば働くほど(基本的に)社会的立場が上がっていくし、鍛えれば鍛えるだけ肉体も磨かれる。肉体が洗練されるとシンプルに異性からもモテる。動物として「生」をまっとうしたいなら単純に頑張ればいい。今のSNS時代は努力する者が後押しされ易いようにできている。前までは匿名掲示板の嫌儲や足の引っ張り合い文化が強く、頑張っている人間は嘲笑の対象であった。まだまだ匿名ノリの名残りもあるものの、基本的に「がんばってるやつがえらい」には収束する。迷ったらとりあえず頑張れば動物として磨かれる。
 話は戻るけれども、それで生物的に鍛えたとて、ライオンもアリンコも死ねば等しく土となるわけで、それが無意味と解釈するならそうかもしれない。ただ死後がないとしても、「生きている間にどれだけ脳内麻薬で気持ちよくなれたから」を基準とするなら抑圧とカタルシス、働いたあとに浴びるシャワーの解放感が重要となる。違法薬物やギャンブルにより、アドレナリンの量を圧縮できなくもない。当然それは誰も推奨はしない。
 僕なんかは自分の作品を投稿/リリースする刺激を覚えてしまい、より大きな作品をつくらねば生を実感できない形を変えたギャンブル中毒だ。その過程で勝手に真善美を見出している。己にとって最も都合の良い思考と生き様を選択したのですね。行動原理を分解すると上記となります。
 とはいえ、最近は友人たちとのルームシェア(仕事部屋を置いている)も再開したし、なんだかんだ友達とゆるくやってればいいじゃんともやっている。ポジティブに考えたら中道。言ってしまえば人生そんなもんである。

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