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あんまり死ぬの怖がるとな、死にたくなっちゃうんだよ


 外を歩いていると、ふとビルやマンションを見上げて、「いまわたしがその気になれば、あの建物に入って高層階から飛び降りることもできるんだよね」と考えてしまう。そのたび、実行してしまった自分の姿を想像して、身震いする。
 別に、つねに死にたいわけじゃあない。そんな時もあるけど、どちらかと言えば死を恐れている方だと思う。子どもの頃からそう。デスノートの最終回を読んで、人は死んでも天国にも地獄にも行かないことを知って衝撃だった。わたし、死んだら「無」に還るだけなんだ。いや、還るって言い方も希望が残ってるね。ただ脳の活動が停止して、思考が永久にできなくなる。それだけ。ある意味、平等ではあるけどね。
 めちゃくちゃ怖くて、布団の中で泣いた。善人だろうが悪人だろうが、死んだらそこで終わり。輪廻転生や死後の世界は、特定の宗教を信じきった者だけが体験できる。わたしは、そうはなれない。周りの人間に、このことを相談しても、愛想笑いで「バカなこと考えてないで早く寝なさい」としか返ってこない。なんで笑っているんだろう? 大人は、死ぬのが怖くない? そんな達観しているわけがない。目を背けているだけだ。
 たしかに、考えたって仕方のないことなんだから、そんなこと意識せず生活するのも理に適っているよね。死に怯え続けたって意味ないし。じゃあ、人生っていつか死ぬことを忘れるために、ひたすらイベントや仕事で予定を埋めていく作業なのかな? 恋愛も労働も休養も、すべては来るべき死の恐怖を遠ざけるため?
 北野武は、『ソナチネ』で、「あんまり死ぬの怖がるとな、死にたくなっちゃうんだよ」って言ってた。その通りだと思う。死に怯える恐怖で苦しみ続けるより、いっそ本当に死んじゃった方が楽だもん。本末転倒だけどね。それを分かっているのに、死にたくなったりもしちゃうし。わたしバカだからさ。
 宗教には、死の恐怖を薄めて、迷える民に安心感を与える側面もある。死後の平穏のためとして、現世で徳を積ませるんだね。誰もがそうすることで国の平和も保たれる。じゃあ、わたしはオタクを導く天使になろう。みんながわたしを、インターネット・エンジェルを見ている間は救われて、死を忘れておけるなら、それでインターネットにも平和が来るなら。死の先までは保障できないけど、画面越しにわたしを眺めている時だけ、生を実感してもらえたら。青白いモニター越しの光を通し、オタクの孤独を癒して回る、わたしはインターネットの天使なのだ。


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