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「今いるここからは落ちていくだけのゲーム」という歌詞の優しさと砂糖菓子の弾丸


 「茜色が燃えるとき」という、最高にカッコいい名曲があります。ガングレイヴのEDですね。友人とこの曲の素晴らしさについて話していた際、彼の解釈がとてもおもしろくて腑に落ちたので、今回はその話をします。

「今いるこの場所はすり減るだけのゲーム」
それなら俺はただ 笑うだけで勝てるはず
「今いるここからは落ちてくだけのゲーム」
それなら俺はただ 踊るだけで勝てるはず

 1番と2番の歌詞。「すり減る」「落ちてく」、「踊るだけで」「笑うだけで」の違いはあれど、ほぼ意味は同じですね。なんと美しい表現なのでしょう。力強い歌声と歌詞が合わさり、本当に自分が笑っているだけで勝てる気持ちになってきます。

 突然話はかわりますが、僕と友人も20代中盤になったことで、体力的にピークが去り始めたあたりなんですよね。だんだんと若い頃にできた無茶が効かなくなってくる時期であり、勤勉に働いたもの、なにもせずに怠けたもの、夢を追ったものと、どんどん同級生たちの環境が差別化されてきました。


 加齢による好奇心や行動力の減退や社会活動に時間を取られるせいで、オタクらしい活動が疎かになり、だんだんとオタクでなくなる・昔の作品の話しかしなくなる同級生も増えてきました。
 その状況を、友人は「今いるこの場所はすり減るだけのゲーム」と認識したのです。もう僕たちはこれから少しづつ、少しづつ感受性が薄れてコンテンツに対する興味が減っていき、いずれはオタクである前に社会の一部になるのではないかと。
 僕と友人の共通言語である小説「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」では、労働などの社会的な活動を「実弾」、夢を追い続けて甘くポップに生きることを「砂糖菓子の弾丸」に例えていまして、悲しいことに人間は歳を重ねるにつれて砂糖菓子の弾丸を削って実弾にしていく。
 そんなすり減るだけのゲームが開催されたらどうすればいいのか、その答えが「笑うだけで勝てる」「踊るだけで勝てる」であり、どれだけ他人からは狂人に見えようとも自分を貫き通すことなんですね。

 急に自分の話になって恐縮ですが、友人から見れば、僕は昔からずっと「砂糖菓子の弾丸」側の人間であり、こうして文章や創作での活動を続けながら一切オタクコンテンツへの興味関心が薄れないのが羨ましく思えるそうです。なんだか少し照れくさいですね。
 彼はコミケ会場で見た、現代でもルリルリの缶バッチをつけた40代らしき男性の集団に強い憧れを抱いており、「大人になってもアニメの話で盛り上がれる人間ににゃるらはなるだろう。お前は踊ってるだけで勝てるはず。俺は正直それになれるかわからなくて怖い」と語る。
 どんどん友人たちは就職や結婚を始めていき、みな実弾として暮らしていく。彼は現在フリーターですが、いずれまともに就職ことで「砂糖菓子の弾丸=オタクコンテンツへの情熱」が減っていき、感受性が失くなることを何よりも恐れているのです。


 しかし、「茜色が燃えるとき」の歌詞はそんな杞憂を吹き飛ばすほどに優しい。

「今いるここからは落ちてくだけのゲーム」
それなら そう 誰もが踊るだけで勝てるはず

 そう、3番の歌詞では「俺は」が「誰もが」になっているんです。このフレーズを聴いて、友人も「もしかしたら俺でも勝てるんだな」と気づき、なんて暖かい歌詞なんだろうと感銘を受けました。一部の人間のみでなく、誰だって砂糖菓子の弾丸側を選ぶことができる筈なんだと。
 それからED映像のように二人で駆け出したりすれば格好良かったのですが、そんな体力もないので互いにオススメの書籍などの話をしながら、このすり減るだけのゲームを互いに勝ち抜いていこうと笑い合いました。
 僕と彼が40代になってもルリルリについて熱く語り合えるおっさんになれることを願って、今日もアニメを視聴していきます。


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