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一口エッセイ:瞑想について

 仏教の本を読んでいくうちに、必然的に瞑想やマインドフルネスの本にも行き着いたので、宗教的・スピリチュアルな方法での精神の安定方法に興味がでてきました。
 結論として、少なくとも上座部仏教・大乗仏教の瞑想の捉え方は、生活に取り入れて面白いモノであると思う。すっごくすっごく省略して説明すると、仏教での瞑想・マインドフルネスは「目の前の対象や今の自分の状況を冷静に見つめて集中すること」であり、これは別に悟りなどといった宗教観と関係なく、意識するだけで効果があることでしょう。
 例えば、入浴中なら「いま自分は暖かいお風呂に浸かっていて、こうして日々の疲れが癒されたいること、休息の時間があることは幸せだ」と現状を認識する。食事なら「自分がいまミカンを食べている。ミカンは甘くて美味しいし、栄養もある。大地と農家はとてもありがたい存在だ」と感謝まで内包する。こう書くとスピリチュアルっぽさが出てしまうが、要は「一つ一つの行動をきちんと認識して楽しもう」というだけだと解釈しています。タイパ重視でとにかく消費のスピードを効率化していく現代と真逆の思想ですね。
 これは修行的な意味合いでも適応され、皿洗い一つにしても、「雑務をしている」ではなく、「自分はいま食器を洗っていて、次に食事をする全員の安全や清潔さを担っている」と認識すれば意識が変わる。「なぜ皿を洗うのか」を考えようってわけで、これも意外と「目の前の行動を正しく把握する」ことで結果的に集中力が増すでしょうし、道徳や綺麗事以上の効果があると思います。現に、僕はいまスマホに向かってポチポチ文字を打ち込んでいるのですが、それは「日々の継続で文章に腕を慣らすため・その日の自身の思考をまとめることで記憶や発見をするため」と考えると、怠いけど……やるか! とはなります。多少は。怠いものは怠いが。
 ここで面白いのは、先ほどちょこっと書いた「タイパ」なる、恐ろしいスピードでコンテンツが供給されていく令和らしい概念と真逆であることです。日々、動画も漫画もアニメも本も有名人の投稿も増え続けるのだから、ゆっくりしていられない。入浴中だってスマホで動画を倍速で観て、食器なんて心を無にして終わらせたらさっさとスマホを開こう。という考えの方が現代人は共感できるのではないでしょうか。大衆の可処分時間をいかに奪うかで企業やクリエイターが躍起な世界において、瞑想なんかやってられないのだ。
 僕は読書中は基本的にエアロバイクを漕いでいる。なんなら、瞑想に関する本を読みながらも下半身は忙しくペダルを回転させ続け、動作的には落ち着きがない。毎日の消費カロリーを計算しているため(僕はそういうステータス管理が趣味なのだ)、本を読んでいるうちに最低ラインである300kcalが消費されていると、たいへん効率的なのです。
 本来、この仏教思想に基づくなら、読書中は「先人たちの知恵や経験が書かれていて、自分はその知識をありがたく吸収して考える余裕をもらっている」と考えるべきでしょう。もちろん、そういった感覚があるものの、別に下半身だけ動かすことに支障はないのだから両脚を回し続けていく。お寺で坐禅中に下半身の運動をしていたら、即警策でパシーンと叩かれること必至。じっとするってそれだけ難しい。そもそも僕は宗教の講義の際に坐禅しているときも、動きまくってしまってバンバン叩かれた。目を瞑ってやすらぐ安心感よりも、時間を無意味に消費する焦燥感の方が若者にとって大きい。
 とはいえ、「時間を無駄にする」……まあ瞑想を無意味な時間と捉えるのも相当失礼なことですが、敢えてそうした「贅沢」を堪能する方が長い目で見ると人間らしいとも今では分かりますけどね。刺激的なコンテンツは無限に増えていくし、その話題や攻略を共有することはとても楽しい。が、それに追われてしまった瞬間に時間の「消費」となり、贅沢ではない。焦りによって動かされているに過ぎないのだから。ミギーだって「心に余裕(ヒマ)がある」ことを人間の利点に挙げている。逆に、何もかも忘れてスマホを遠くへ置き、ぼけっと床に胡座をかいて目を瞑り今の自分の現状・感情を正しく把握する時間を過ごす余裕や贅沢こそ、人が人である利点を活かしていると言えるかもしれません。
 僕は、結果的にどちらが幸福や善であるかなんて断言するつもりは一切ない。ただ、このようなマインドフルネスの概念自体はとても興味深く、大切な文化であると感じている。


 同人誌の在庫があとちょっとなので、BOOTHは今月内で締めます。よろしくね。

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