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我が名はレギオン 我々は大勢であるが故に

 20代では「変わった人だね」と個性で許された要素も30となった今は「ヤバいおっさん」でしかなくなる。
 数年前から急に自分内へ訪れた宗教文化ブームは今なお続き、現在では名のある牧師や僧たちによる説法集を読んでいる。だいたい「イエス・キリスト/仏陀の教えを守り正しく生きましょうね」とありがたい話が載っており、「俺は存在しない神の奴隷じゃねぇ」と叫ぶマリリン・マンソンのロックと交互に摂取することによって、まるでサウナと水風呂を往復しているような寒暖差で気持ちよくなってくる。


 なかなかKindleにないので、本屋に行ってお金を出して自分から説教されにいく。キリスト教徒でも仏教徒でもなく、あくまで「宗教文化に興味のある人」でしかないため、説教も説法もわりとムカつく。そんな綺麗事で解決されましても……といった気持ちになりつつも、僕の狭量で浅慮な思考なぞどこ吹く風で、神/仏陀を骨の髄まで信仰する者たちの力強い言葉はカッコよく映る。


 これは『黒博物館』シリーズで最も痺れたページ。別に今回の日記の内容とは一ミリも関係がない。めちゃくちゃに良い。僕は入れない。


 信仰心はともかくとして、文体や語彙が綺麗で読んでいて楽しい。
 説教臭いと思いつつも、この考え方は大切だなと記憶に残る教えもしばしばある。覚えちゃったからには日常で口に出してしまう。綺麗事は落ち込んでいる人間に対して効果的な場合もある。何かの相談を受けている際に、さらっと「中道という考えがあって……」「隣人を愛せよの意味はね」と仏陀の言葉や聖書からの引用を適所で繰り出せると、たいてい相手はビビる。
 一瞬「こいつ何!?」と反応されつつ、「まあこいつはこういうこと言うし、いま言ってることは真っ当だし……」と葛藤の末スルーされる。日常にキリストや仏陀が現れると、コミュニケーションのギアが切り替わった感覚がして互いに緊張が走る。場合によっては、この異様さによって小さな悩みが忘れ去られることすらある。
 ガメラ2では、怪獣の大群を見た自衛隊員A(モブ)が、唐突に「我が名はレギオン。我々は大勢であるが故に……」と新訳聖書を誦じ始め、そのセリフを由来に怪獣は「レギオン」と呼ばれる。
 子供の頃から「モブが急にすらすらと聖書を引用!?」と驚いてしまい、今でもこのシーンで急にモブが教養を発揮してくる異質さに笑ってしまう。カッコいい、たしかに聖書の引用はカッコいいし、場面として適材適所かつ怪獣の名前が「レギオン」なのは素晴らしい。ここだけ見るとパーフェクトであるのだが、やはり全体から見るとあまりに浮いていて妙に印象に残る。このセリフを機に皆がレギオンと呼ぶこともすごい。あなたは隣の一般人が「我が名はレギオン……」と誦じ始めたとき、素直に「レギオン、か」と受け入れられるだろうか?
 『パルプ・フィクション』を初見で観た感想も、「銃撃ちながら聖書を引用してぇ〜」であった。なんやかんやあって今ではタイミングにより似たようなことができる。20代の頃ならキャラが立って良かったかもしれない。が、今や三十路。三十路のおっさんがキリストや仏陀の言葉を使うと、重々しさが迫真に近づき、軽く流せない感じになってしまう。ヤバいおっさんである。
 映画と違って、みんな「レギオン、か」と納得することはない。「いまガチの説教始まってんの?」と動揺するのみだ。リアルでありがたい言葉がすーっと沁みることなぞ殆ど無いのだ。ましてや僕は宗教家ですらないわけで。せめて信者視点で言えよと言われるとその通りでしかない。
 敬虔で善良なおっさんとして、堂々と教会での結婚式に出席できる日は遠い。というか結婚式に呼ばれたこともない。偏屈で面倒くさいヤバいジジイへのルートは間近に見え始めている。

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