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エッセイ:漠然とした不安の正体

 中途覚醒が重なり、珍しく午前中に起きた。
 せっかくの晴れた午後なのに、急に誘って遊べる友人も居ないので、自宅でひたすら映画を観て過ごします。

 昔は、ルームシェアなり、シェアハウスなりをしていたので、何をするにしても、すぐ隣に友人の存在がありました。元から母と二人きりで育ち、上京して友人の居ない一人暮らしを体験したので、家族というものに憧れが強い子だったと思います。
 一緒にアニメを観たり、ゲームに付き合ったり、時おり喧嘩をしたりする、兄妹関係が、血の絆が羨ましかった。友人とひとつ屋根の下を共有していた時期は、その念願が叶ってとても楽しかった。どんなアニメやゲームだって、そこに友達がいて笑っていたら、それだけで良い思い出になるのだ。

 そんな幸福の日々を捨てて、僕は一人暮らしとなりました。
 いろんな理由がありましたが、一人で生きてみたかった。もっとたくさん文章を書いて、自己表現してみようと思い立ったのです。僕はバカで学が浅く、自意識の話しかできないから、自身が追い込まれないと、孤独に立っていないと文章が書けない。
 鬱屈がペンを走らせると信じていたし、鬱々とした気持ちを昇華することが力だと思っていた。それも間違っていないとも感じておりますが、世の中はそれだけじゃないのですね。でも、僕はそれしかできなくなっている。

 満たされていたら何も書けないし、何も書けなければ、できることが何もない。
 じゃあ、このまま一人部屋で、フィギュアやソフビ、おもちゃに囲まれながら死んでいくのか。それはそれで、絵に書いたオタクの死に様で悪くない気もする。でも、僕が憧れた家族生活とは、共同生活とは真逆のものだね。
 僕がくたばったら、いったい誰が僕が集めたグッズを受け継ぐのだろう。せっかく秋葉原や中野に住んでまで選んできた自慢の品だらけなのに。家族がいないから、誰とも血がつながっていないから、そのまま廃棄されるのはつらくて仕方ない。

 こんなことを考えるなら、午前中になぞ起きなければ良かった。
 どうせ、家で動画を観ているか、本を読むかしかしないのだから、何時に起きようと関係ない。なら、外が明るくて活気のある時間に起きるのは、別世界の喧騒が聴こえてくるだけ損だ
 こんなときには、インターネットがある。昼間のネットの海は人が多くてあまり好きではないが、それでも家の外にくらべたらマシでしょう。
 フォロワーには、感謝している。僕の孤独を薄めてくれるから。
 お前はフォロワーに甘くしすぎている、なんて冗談っぽく指摘されたりもする。しかしね、薄暗い自室で青白いモニターをぼうっと眺め続けている生活なのだから、スマホ越しとはいえ、不特定多数の他人との繋がりには感謝しかない。
 僕が真に恐れているのは、やはりインターネットから飽きられることでしょう。その時がくると、現実になにもない空っぽの殻だけが残る。われても雛鳥が羽ばたかなった悲しき卵。
 しかし、幸せになると何も書けないのだから、主観では不幸でないとネットで生きていけない。「飢え」が止むと終わってしまう。一生、満たされない気持ちを抱えたまま、死なないために泳ぎ続ける回遊魚のように、情報の海を進み続ける。

 なんてことが、漠然としたした不安の正体なのでしょう。
 言語化したところでどうしようもない。
 とにかく、これを誤魔化すようにアニメや本に没頭し、一日を淡々とこなしていくんだ。
 みんなに飽きられないように。
 泳ぎを止めて、陸に打ち上げられて死んでしまわないように。

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