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前提が揺れる世界で

 行き詰まったSNSはゆるりと衰退する。となると自然に人口が減り、数字の世界からゆるりと離れ、現代の相互監視社会から解放されます。よかったよかった。するとどうなる? 「何者かにならなければいけない」強迫観念からも解放されますね。
 隣の芝生を眺める機会が減りますからね。すぐ隣の庭が輝く様子を目にし続ければ、自然と「自分も輝かないと」と思い込む。そんなことは誰も強制していなかった!
 世界のルールが変わる。常識が変わる。まあルールや常識はひどく曖昧で存在しないようなもんなのだが。正しくは「前提」が変わるか。人間は何者にもならずにのんびり今を生きているだけでいい! 全員からそう言われてあなたはどうする。
 何者かを目指し、せめて目指すフリをして、異性からの関心を惹かねば生きた心地のしなかった世界が終わる。のんびりと遊びと恋愛でもして、平凡な家庭を築くことが最も幸福であると皆が理解する。納得するかは知らない。僕の幸せはそこに無いから極めて他人事だからね。僕はSNSの無い時代から、マリリン・マンソンを聴くアンチクライストな不良少年だ。
 果たして人は急に仏教徒の真似事ができるでしょうか。
 僕の友人の死生観は面白い。曰く、「死ぬ寸前の走馬灯を気持ちよくするために生きる」だそうで。彼は元はそれなりのヤク中。過剰な脳内麻薬によるトリップを経験し、時間感覚が狂うことも体験してきた。生きるか死ぬかの境界線で分泌される脳内物質により、例え一瞬で死んだとしても主観では一生を振り返るほどの体感時間に突入する可能性が高いと踏んでいる。
 つまり、死ぬ直前で起こるであろう、今際の際の大トリップを気持ち良く迎えるため、あんまり疲れず、罪悪感を覚えることもせず、できればちょっぴり善いヤツで居るわけだ。理に適っている。これは仏教的な価値観で、そして彼は同い年ながらフリーターで、「何者にもならなくていいスローライフ」を実践している。素晴らしい! 生きることへの軸がある。何も考えずに就職してそれなりのお金をもらうサラリーマンの何倍も立派に見える。友人であることを誇りに思う。数年後には発狂しているかもしれないけどね。それは社会人だってそうだし、みんな一寸先は闇の可能性を孕んでいる。
 のんびり生きることを肯定される世界で、次はのんびりの中で層ができる。結婚できる者、結婚を羨む者、そんなことも気にせず一人で居られる者。フラットな視点で見ればどんなに平凡でも配偶者と子供に囲まれた者が幸せで。むしろ、フツーとされる家庭こそ真に目指すべきゴールとなっちゃうね。もう無意味にキラキラしなくともよい。人は二重じゃなくたっていい。
 そんな平均に辿り着けない人たちは嘆く。が、SNSは死んでいる。余計に誰も耳を傾けない。それは悲しい。ただ、その苦痛を差し引いても相互監視社会の窮屈さよりはマシかも。人によるかな。SNSがあったとてリアルが良くなるわけじゃないから変わらないか。だとすればストレスの元が少ない方が得だね。じゃあ僅かながら差し引きプラスじゃないかな。
 僕は変化が好きで、変化の結果の良し悪しは二の次。とにかく変化の節目で人々が混沌とするのが好きだ。世界の前提が塗り替わるまでの佳境が迫っている。あなたたちは昨日も今日も集団ヒステリーを起こした。パニックパニック。いいじゃないか。YouTubeよりも仏陀の教えを読んでいた方が幸せに近づく未来。逆に楽しそうに見えるけれども。
 何者になるんだと努力の真似を繰り返す方が幸せだったとすれば、たしかにそれは不幸でしたね。また来世。
 

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