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一口エッセイ:日本人の偶像崇拝、推し文化の話

 匿名メッセージサービスへ、本当に質問って感じの質問があったのでたまには答えてみましょう。


 「偶像崇拝」についてですね。ニディガ自体のテーマがある意味では偶像崇拝についてであり、ゲームそのものが巨大な石を削って超てんちゃんの形を掘りだす、仏像製作のような作業とも言えるでしょう。

 さて、「偶像崇拝の禁止」ですが、これはほとんど一神教の話であって、日本ではあんまりピンとこないのではないでしょうか。「唯一の神」、神は一人しかいないのに関わらず、絵や像を神として扱う「嘘」をアブラハムは許さなかった! イスラム教は徹底して偶像崇拝を禁止しているが、同じく一神教のキリスト教はだんだんと軟化した。キリストのフィギュアも、その物体を通して同じ神を信仰しているからいいんじゃないか……と。なので、偶像崇拝=神への反抗だというイメージの大半はなんとなくのイスラム教への知識が由来ではないでしょうか。自分もそこまで詳しいわけではないですが。だいたいそのような理解。
 つまるところ、無宗教か仏教、神道がほとんどの日本人には馴染みが薄いのだ。なんなら日本では仏教と政治が混ざったことで、進んでそこら中に大仏を建立しまくってきた。大仏=神とも違うが、とにかく日本は偶像をめちゃくちゃ信仰していようが他者からとやかく言われることはほぼ無い。僕も今年はたくさんの仏像を見学しに行きました。

 さて、話を質問へ戻すと、ここは僕も興味深いところである。「推し文化=偶像崇拝か?」という話だ。無宗教が根付いた現代日本人は日々の精神的支柱として、画面の向こうに存在する「推し」を選んだ。神でも仏でもなく、偶像(アニメキャラクター・実在アイドル)である。これは面白い文化の変化であると思う。僕は肯定も否定もしない。いろんな国がある中で、偶像大好きな謎の島国があったっていいでしょう。それ(キャラクター文化)がもはや国のアイデンティティの一部でもあるわけだし。
 しかし、そんな推しへの信仰心を試すような作品が文学界に現れた。みなさんご存知、『推し、燃ゆ』である。本作では、学校もアルバイトも上手くいかない女子高生が、大好きで大好きでたまらない推しのアイドルを信仰している中で、ある日彼がしょうもないことで他人を殴ったニュースを目にして動揺する話です。今まで盲目的に「推し」てきた「信仰の対象」が、あまりに俗な問題を起こした。そこへ「信者」としての「信仰心」が試される。


 どちらが正しいなんて答えはない。「こんな暴力的な人が好きだったなんて」と推し変をしたって当然の出来事かもしれないし、「推しにも殴るほどの事情があるはずだ」と神を疑わずに信じ続けるのも自由です。ここでの問題は本物の神様でなく、所詮は「人間」であることだ。人間なので間違える。もし、僕が好きで「推している」偶像が居たとして、彼や彼女が人間らしいことをしたとても、自分は嫌いにならない方だろう。僕は神様の俗なところも愛するし、もちろん犯罪やモラルのない行動だとしても理由があるだろうと想像する。……まあ、僕は「現実の人間を推した」経験がないので、実際にそんなことがあったらどう感じるかわかりませんが。そのへんの機微は超てんちゃん/あめちゃんで表現したつもりです。
 ただ、人間として「相手の人間の姿」を想像するでしょう。立場がある人が間違いを犯すのだから、なんらかの理由や誤解は必ずあるはずだ。それは身をもって経験している。人は人です。けれども、真の意味での「悪人」なんてめったにいるはずがないことも知っている。いや、神が相手だって同じ態度をとる。別に僕は本物の神様が気まぐれで暴れたとて、それを不思議と思いはしない。「正しい」ことだけをするから神だと認識していないから。
 脱線に脱線を重ねた。元の一神教の強度のためにアブラハムが考えた「偶像崇拝の禁止」と、「日本の推し文化と偶像の関係」は全くの別物なので、一神教を信ずる日本人でないかぎり、そんなこと考えなくても良い。ただ、あなたの平凡な人生の代わりに、画面の向こうで光り輝く推しへお布施による「命」を託したとき、その推しが「神様」らしからぬ行動をした際、そのとき初めて信仰心が試される。質問者がどこまで意識して「崇拝」の語彙を選択したかはわかりませんが、その感情が試される時がくる覚悟はしていた方がいいかもしれないし、そんなこと想像できないほどに熱中しているからこそ、「ファン=信者」なのかもしれませんね。
 

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