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ボス戦パーティと男3人の生活

 ドラゴンボール超の最終回でのラスボス戦パーティが、悟空・フリーザ・17号という想像もつかないメンバーであったことがとても好きだ。ワンピースのカイドウ戦もいい。人生において重大な局面に向かう時、いつだって予想だにしていない集まりとなるでしょう。そのリアリティと意外性こそ物語なのかもしれない。
 ここ最近は、だんだんと2年後のアニメは向けて周囲が集約しつつある。ラスボスかは分からないが、僕の人生にとって間違いなく大ボス戦なわけです。
 そんな中、本腰を入れるために仕事部屋を作りたく、その際住む家に困っていた友人2人とまとめて3人で3LDKのアパートを借りた。今日、友人が本格的な引越し作業を終え、リビングに3人が集結した。
 一人は僕が初めてルームシェアを経験した友人で、もう10年以上の付き合いかつ、ともにシェアハウスへ移住したりもしたから、共に住んでいた期間だけでも5年くらいな気がする。そして、もう一人も同じくらいの付き合いだが、彼は基本的に実家に居たので友人と住むのは初めてという塩梅。僕はパソコンと本が置ける空間があれば何でもよかったし、息抜きにリビングで雑談なり、彼らがスト6している様子を後ろからベガ立ちできるならちょうどいい。
 彼ら自体は僕の活動となんら関係はないが、アニメ製作という大きな場面で家族として過ごすのだから、自分の山場と彼らとの生活は記憶に紐付く。そうなると大ボス戦の仲間が昔からの友人たちに戻ったのは意外性ありつつ物語性もあってワクワクする。収まるところに収まった感覚がしっくりくる。
 他者との会話とは、偶然と偶然の重なり合いで小さな奇跡が起きることに意義を覚える。
 たとえばのんびり友人がYouTubeを徘徊しているだけでも、普段自分では決して開かない動画を見ることになるし、そこから適当に話を広げていくうちに、当然互いに別の人間なので予想もつかない方へ突き進んでいく。特に、勝手知ったる十年来の友人相手なんて、脳死で思いついた軽口が連続していくので、それが笑いに繋がる。こんな発想がでるのか、そんなわけのわからん知識はなんなんだ、と。偶然が積み重なって小規模の奇跡(大笑い)となる。
 一連の流れのメリットは、「ただみんなで笑って楽しかったね」に留まらない。もちろん、それだけでもいいんだ。むしろ、それ以上に大切なことはないのだけれど。残念ながら作家になったからにはそれを活かすための生き方をせねばならない。何故なら、偶然の果ての奇跡は、一人の力では辿り着けない瞬発力があり、それを物語へ付与することで作品へ脂が乗っていく。
 『チ。』の担当編集ちよださんと話していた際、「ギャグシーンは普段の身内ノリから生まれる」と聞かされ、大いに納得した。
 登場人物たちのシュールな会話は、現実での身内ノリをそのまま転用することで唯一無二の空気感となる。そのまま、といってもキャラや展開に合わせて柔軟に組み替えるでしょうが。キャラの掛け合いに良い意味での不自然さ、ランダム性を与えるには、他者との会話のトレースが重要だ。偶然がなければキャラたちはつねに意味のあるお硬い会話しかせずに窮屈となる。たまに挟む無意味な軽口を彩るには、それこそ普段の友人たちとの会話が鍵となる。
 直接転用しなくとも、自分にない発想が聞けた瞬間、会話が広がった瞬間に意味がある。逆に、僕が社交辞令やお世辞を極力嫌い、飲み会や集まりに参加しないのも、社交辞令でのうわべだけの会話にランダム性はなく「互いが最低限の社会性を有しているかの確認」のみに終始するから。「二人とも日常会話を滞りなく行えるくらいに社会的ですね」、と確認しあってなんの意味がある。そんな回りくどい茶番のための社会性なら、いっそかなぐり捨てた方が作家としてあるべき姿に思える。
 ま。要するに、結局またルームシェアに戻ってのんびりと過ごす日々が始まり、この久々な感覚が楽しかっただけだ。僕は実際の家族が居ないわけなので、こうした擬似関係、家族計画からは逃れられない。のんびりやっていこう。いや、アニメ作業は常に切羽詰まっているが。
 細かいことを抜きにすれば、30となった男3人の共同生活の時点ですべてがバカバカしくて面白い。3人で中年臭さに塗れつつ、四周目くらいのおっさん塗れな青春を謳歌していく。

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