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スピリチュアルが人を救う瞬間

 宗教について調べれば調べるほど、人は科学的根拠のない大きな何かを信じ、それで精神や生活が救われるのであればそれでいいのだと分かってくる。
 無宗教の日本人が、なんとなくで仏教や神道的な行為をありがたがるのは特に顕著だ。
 スピリチュアルな話題は久々であった。ジムのトレーナーが急に「お祓いってどう思いますか?」と訊いてきた。ネット慣れしてスピリチュアル・オカルトへ慎重になったオタクからはなかなか出てこない話題でテンションが上がる。
 「僕は(すぐ中退したけど)学校で仏教の勉強をして寺に居たりしたので、お祓いよりは瞑想で解決しますが」と、否定はせずに話へ乗っかかる。妙な話題へ妙に乗り気という傾奇者の役目を果たすのだ。ちなみにお祓いは神道を指していると思われるので、霊魂と無関係な仏教との関連はほぼ無いのですが、そんな細かいことを気にしていたらマッチョにはなれない。
 ダンベルを必死に持ち上げる僕の横でトレーナーは続ける。「最近、めちゃくちゃ不運続きで……やっぱお祓いとか行った方がいいでかなーって、オススメとかあります?」
 この考え方はとても好きだ。
 生きていたら下振れ、不幸が続くことは必ずある。それは基本的に偶然の重なりであり、麻雀でいう「流れ」が存在するわけではない。あるとしたら「憑かれ」でなく「疲れ」であって、シンプルに休むべきだ。トレーナーさんは身体のプロなわけで、肉体的な問題ではないのでしょう。恐らく自身の行動と関係ない急なトラブルが増えたのだと思われる。
 そういった「なんか上手くいかないな」と落ち込んだ精神にリセットを行うため、日本で生きていると何となく目にする神社仏閣に頼ってみる。宗教が人の心を楽にする、あるべき姿だ。
 ここが重要なんです。「救われたらいい」。誰かの重荷が軽くなることが大切なわけで、信憑性や科学的根拠は二の次なのだ。そのための雰囲気作りのためお金を払う、受け取っているのであって、実際の効果は受け手の気分次第である。ここで根拠がどうと小煩くつついてしまうなら、その人はまだ宗教の概念を理解できていない。
 「気分を変えたいんですね。原宿も近いし、明治神宮を回ってみるとかどうですか」と答える。僕はあまり神道に詳しくないし興味も薄いのですが、こういった場合の回答は一応用意している。「お祓いの効果はともかく気持ちは楽になると思います」と続ける。スピリチュアルを否定せず、かといって非現実的な肯定もしない塩梅で説明をしていると、まるで京極堂だ。
 といった会話からしばらく後、トレーナーさんは実際に五千円払って明治神宮でお祓いをしたらしい。この金額はスパチャのようなものだ。払った分だけ「こうしてお金を出したのだから」と本人の気持ちが救われる/テンションがあがる。体験にお金を払っているわけで、信仰心に納得がいくための金額。わざわざ五千円だして儀式を受ける体験自体が楽しいわけで、どことなく気持ちが切り替わっても不思議ではない。
 「なんかスッキリしました。効果あるものですね!」と嬉しそう。現実的に考えるなら、不幸が続いたあとに落ち着いて平常に戻っただけでしょう。が、そのきっかけにお祓いがあったなら何よりですし、そもそも本当に彼の肩には筋肉以上に低俗霊がついていた可能性もある。なんにせよネット民に無い素直さが羨ましくもあるし、宗教を学んでいる身として、土着信仰が街の住民を救った事実に嬉しくなる。
 そもそも「肉体」を扱うプロには、科学的な根拠以上にスピリチュアルさがあって欲しい。気とか流れとか、通常の何倍ものトレーニングで見つけた、解説サイトや本に載らない「何か」に辿り着いて欲しいし、それはオカルトでなく「ある」のでしょう。人体にはまだまだ秘密があり、鍛えた先に見える「気」と呼ばれる何らかの化学反応があるのはおかしくはない。要するに身体の仕組みが可視化されていくのでしょうし。
 それはそれとして、「お祓いまた行きたいな〜」とニコニコする姿は少し不安であった。怪しい数珠や水を買わされ始めたら止めよう。人はいろんな危険と隣り合わせに生きている。

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