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術後3日目 生命力

 岩明均先生が『寄生獣』最終巻のあとがきを、自身が誤って切った親指が再生していく生命力についての内容で締めたことがずっと印象に残っている。生命というものはそれだけ不可思議で魅力的なのだ。
 手術後3日目になりました。
 昨晩の痛みが激しすぎてピークだと直感していた通りで、さすがに快方へ向かってきた。39℃近くあった熱は37℃台へ、一日中止まらなかった鼻血もだいぶおさまり、切った喉の腫れも引き始めて一文くらいは喋れるようになりました。それでも片鼻に管は刺さりっぱなしですが。
 頭の内部を、顔面の中心を奥から弄ったというのに、人体はそれすら数日で再生していく。間違いなく生命のパワーです。いま僕の身体は全身から「生」を望んでおり、鼻呼吸という新たな習慣を取り入れつつある。

 鼻呼吸について僕はまだ赤子も同然。身体の機能として備わって3日。唾を飲み込むタイミングも、数分鼻だけで呼吸する方法もわからない。しかし、少しずつ、少しずつ、口から鼻への呼吸へ切り替わっていくことを実感する。睡眠中に口が開かず喉が渇かない。スムーズに肺へ酸素が行き渡り中途覚醒を起こさない。なんと便利な呼吸法なんだ。中途覚醒しない、は嘘だ。今はさすがに熱や痛みで起きてしまうが。ゆくゆくはそれも遠い過去となる。正しい呼吸を学習していくことでしょう。できれば、こんな穏やかな身体機能を失いたくないものですが。
 逆に、僕はこの生命力に困らされているのだ。
 何故なら僕の障害の根本は、鼻奥と喉を肉が塞いでいることにあり、その肉は幼い頃に手術で切除されるたびに、カチカチに膨らんで再生していった。おかげで幼少期の僕は鼻呼吸が手に入らないまま入退院を繰り返し、小学校低学年の思い出をベッドの上でゲームボーイカラーと格闘した記憶で埋めることとなる。みなさんが学校で机に向かっている間も、僕は一人で『ワリオランド3 不思議なオルゴール』を延々と繰り返していた! それは結構楽しかったんですけど。

 お節介な僕の鼻中の肉は、いま喉奥まで貫通している憎き薄緑の管を外してしまうと、いずれは再生していくのだろう。先生は粘膜で壁を作ってみたと言ってはいたが、おそらく生命力の方が勝つ。僕の鼻はなぜか「喉との通路を塞ぐ」ことが自然と勘違いして、一生懸命に肉を膨張させるだろう。今まさに切開した鼻奥や口蓋の腫れがみるみる引いていくように。術後の自分が日に日に回復していくに連れ、人間の生命力の強さを実感し、再び鼻奥が締まる予感を覚える。
 いったいどうしてなんだ。
 鼻と喉が繋がっていた方が明らかに生活が楽になるだろう。それなのに、なんで僕の細胞はわざわざ気道を塞いで不健康を促進する。無能な働き者そのものだ。良かれと思って再生するのだ。肉体の持ち主である僕の身体を維持するためと勘違いして働き続けるのだ。
 憎みきれないでしょう。こいつらは僕のために、いやもっと単純に「自分たちが生きるために」鼻奥を塞ぐんだ。たとえそれが健常な生活を阻むとしても関係がない。生命だから。そこには善意も悪意もない。ただ一般的な人体から見ればバグってしまっているだけで。
 いま僕は週3のトレーニングで自ら人体を破壊している。不必要に重りを持ち上げ、悲鳴をあげる筋肉を痛めつけ、壊しきったところにタンパク質を流してより強固に再生させている。おかげで今は胸が膨らみ、腹が割れた。今回の手術での体力勝負にも大いに貢献してくれたことでしょう。つまり生命力に頼っている。自ら意図して破壊し再生することすらしているのだから、僕には僕の目的、生命には生命の目的があり、悲しいことに鼻中においてはそれらが一致しなかった。そういうこともある。
 さて、そろそろ院内に居ながら仕事をするようになってきました。いつまでものんびりしていると退院後に追い込まれる。超てんちゃんというキャラクターへ命を吹き込み、これからに向けて新たなストーリーと人物たちへも命を植える準備を行う。先生に頼み込んで退院日は木曜日となった。もう鼻の管さえ抜けば、あとは「異様に鼻血が出る人」でしかない。会話を一文ずつ喋ればどうにかなる。いつまでも病室で人々の優しさに甘えているわけにもいかない。というか入院費用は一日分ですら高すぎる!
 そんなわけで、僕が嗅覚を取り戻せるかどうかは、木曜朝に管を抜いてからわかる……はず。それから閉じるかどうかもわかる……かもしれない。すべては謎に包まれている。生命だから。生命力がどんな未来を引き寄せるかなんて、人間サマ程度には分かりはしないんだ。僕の肉は肉で独立して生きている。こいつらが生きたいと願ってしまったなら、その不器用なバカたちまでひっくるめて自分だと背負って生きていくだけです。

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