見出し画像

言葉の呪い

 昨晩の日記で、「文字は呪いであり祝福である」と書いた。これについて考えていることを詳細に書いてみましょう。目に入った/書き込んだ文章は己が思っているよりも精神の奥に刻まれていく。自虐をすればするほど「思い込み」、逆もまた然りで大それたことを放言するほど自分は尊大だと「思い込む」。少しずつ、極めて少しずつ変化していくので気づかないのも厄介ですね。
 だから明るいことばかり書きなさい、といった話でもない。落ち込んでいる時に無理して元気に振る舞うのも余計に心苦しいでしょう。別に何をどうしろ、なんて言いたいわけでなく、事実として自分は「言葉の強さ」を実感し始めている。
 毒も喰らう、薬も喰らう。ポジティブな綺麗事だけ眺めていても脳内がお花畑になるし、陰湿に他人の足を引っ張り合うぬるま湯に浸かり続けると自分の人生を進められなくなる。ちょうどいい塩梅が求められる。中道ですね。特にTwitterなんてテキスト主体のSNSなのだから、どうしたって主張の強いツイートへ日々じんわりと脳味噌の占有面積が侵されていく。
 最も怖いのは、自虐によって「不幸」がアイデンティティとなり、幸せな自分を恐れてしまうことだ。僕も似たような倒錯を起こしていた。あまりにネガティブな世界に身を置きたせいで「幸福」を罪と認識しまい、それを書き込むことで他者を傷つけ攻撃されると思い込んでしまう。幸福である自分に自信が持てず、苦しいことや悲しいことだけを書き込む。言語化して投稿し反応されることで思考はより強固に固定される。「SNSで嫌われないよう不幸でなければならない」と勘違いするのだ。これはほんとうに不幸なことです。
 わかるよ。幸せそうに社会を、学校を生きる「普通」が嫌いだものな。「普通」になれないから、こんなところでドロドロと人間の練習をしているし、「普通」の土台で勝負したら単純な能力不足で負けるのだ。「ただのよくいるダメな一般人A」と認識されて個を失う。それなら「いろんな不幸に見舞われ続ける狂人」として、自分自身を見てもらいたくなる。
 しかし、そうした自虐を繰り返すと、蓄積された言葉はやがて真実となる。たとえば、以前「Twitterで構ってほしくて過剰に病んだウソの呟きをしていたら、いつの間にか本当に精神の病気を抱えていた」と相談されたことがある。これは現代では少なくない悩みに思える。言葉を投稿して、観測されて「いいね」されると、その瞬間にまるで事実のように蓄積される。少し嫌なことがあるたび過剰な書き方をしたり、一部の人間を完全な悪人のように誇張して書いたりすると、みるみる病んでいく。途中からケロッと元気な人間はシフトすることもできない。周囲に似たような人たちが集まった中、抜け駆けで幸せになることは有罪である。勢いで悪口を書いた対象を本気で憎んでしまったり、鬱々としすぎて鬱病の思考がトレースされたりする。SNSはあらゆることを書き込み易すぎるんだ。
 繰り返しになりますが、それで「悪いことを書くのをやめよう!」「元気よく生きていこう!」なんてクソみたいなアドバイスがしたいのではない。ただ、僕がもう10年Twitterを見てきて学んだこととして、言葉と感情、パーソナリティは、自身が想像しているよりも肉薄し、制御できるものではない。毎日「死にたい」と書き込んでいるうちに、だんだんと頭の中に「死」の文字が膨らんで意識せざるを得なくなる。
 幸せになることが罪で、それは本来の自分じゃないと錯覚する。敢えて酷い言い方をするなら、悲劇のヒロインを気取り、誰にも救われない人魚姫のような世界観に浸ってしまう。それはそれで一時的に心地が良いのも厄介なことだ。「一般的な幸せ」を憎んだばかりに、不幸の方が居心地よく感じるのですね。そうなるともはや不幸の方が幸福なんじゃないか? そうかもしれない。それに気づくと自暴自棄になって、自ら不幸を望み始める。絶望が希望になる。ここまできたらいっそ一生立ち直れないほどの苦しみを背負いたいと考えていく。
 が、さらに残酷な真実が待っている。
 人間、主観以上に他者のことなんて本質的にどうでもいいのだ。みんなネットニュースで回ってくるから暇つぶしに言及しているだけで、本当に他者の著作や発言、経歴を調べ、相手の立場に立って発言することなんてめったにない。あなたに対してもそうだ。あなたが不幸そうにしている様子を面白半分に「いいね」しているだけで、実際は他人の幸不幸なんてどうでもいい。急に「これからバリバリ勉強して資格をとってまともな社会人になる!」と机に齧り始めても、当初はまた困惑もあるでしょうが、2ヶ月後くらいには「頑張ってるね」としか思わない。3ヶ月目にはもっと塗り変わっているんじゃないか。実際、人間3ヶ月あれば別人にもなれる。マジでどっちでもいいのだ。ここまで情報と人間に溢れた世界で、たかが一つのアカウントの人生に執着しない。もちろん熱心なファンとアンチは一定数いるが。そいつらのことは見なければいい。神のように持ち上げられようが、不当に叩かれようが、観測しなければ関係がない。幸い、言葉とアカウントは簡単にミュートできる場なんだ。これも残酷なことに感じるけれど。渾身の悪口すら一瞬で遮断される。
 他者の幸福へ無条件で噛み付く人間の多さは否定できない。けれども、それは一時的に単語に反応して寄ってくるだけで本質的には無関心である。良くも悪くもこんなもんなので、不幸と自虐がアイデンティティーになるタイミングは人によってある。僕もそうだったし、が、SNSの仕組み上そこから抜け出すのは難しく、そして抜け出したとて他者の無関心さに驚くのみだ。
 もちろん、それが僕含めてそう簡単にできるかはともかくとして、人は素直に「幸福に生きる」べきでしょう。

サポートされるとうれしい。