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一口エッセイ:神の視点をもってしてもピクミンを救わないことは罪か

 ピクミンは死ぬ。必ず死ぬ。火でも死ぬ、溺れても死ぬ、電流でも死ぬし、当然ピクミンを栄養とする捕食生物に食べられても死ぬ。死ぬ時は死ぬ。代わりに、ピクミンも集団で生物を殺すし、地形を変化させて環境を荒らすこともある。どこまでいっても「自然」でしかなく、生きるか死ぬかの世界でいちいち一匹一匹へ慈悲を与えている場合ではない。


 僕の赤ピクミンの一匹は、不用意に電流に触れてしまったせいで痺れて死んだ。代わりに電流は耐性のある黄色のピクミンによって止めることができることを学習し、おかげで新たな道が拓け、行動範囲の拡大とともにピクミンの総数、種類、生息範囲も増していったのである。
 ピクミンは生物だ。しかも、あまり知能がある方ではない。自身を引っこ抜いた人間型の生物の指示を忠実に実行する。なぜか。そこまでは作中ではっきり明言されはしませんが、人間の命令をこなしていくことで自身たちの数が増えていく事実が重要だと本能で直感しているからではないでしょうか。
 生物なのだから、目的としては種の存続で、人間の指示によって何かを運んだり建造したりしているうちに、星中にピクミンがチラホラ生え始め、どんどん生物として強くなっていくので、そのために自分たちの一部が犠牲になるのもやむを得ないのでしょう。たとえ数匹が原生生物に喰われてしまったとて、どうにか味方が殺しきったら、その原生生物の死体を糧にもっともっと地に満ちていくのだから全体で見れば死は怖くないのですね。
 なら、プレイヤーもいちいちピクミンたちの死に構ってやれない。むしろ、多少の犠牲を伴ったとてどんどん星を開拓し、ピクミンの天敵だらけだった惑星で彼らのヒエラルキーを高めてあげるべきだ。プレイヤーは神ではないのだから、自身のできる範囲で多くのものを失いながらも進んでいくしかない。ピクミンたちも種としてそれを望んでいるはずと信じて。


 ……が、今作はその前提がひっくり返される。
 なんと、ピクミン4は「時間巻き戻し」機能が搭載されており、大事なピクミンを殺してしまった場合、数分時を遡行して因果律を改変することが可能なのです。これらを繰り返せば一匹もピクミンを殺すことなく、罪悪感を抱えずに済むままゲームをクリアできる。つまり、この作品においてプレイヤーは「神」だ。食うか食われるかという大自然の掟を無視し、一方的に虐殺できる。仲間が死ぬたび、その事実を無かったことにして何度でもやり直せる。プレイヤーが望むかぎりピクミンは永久に繁殖だけが行われる。
 こうしてピクミンを救うことは「善」か? 「このままだとピクミンは⚪︎匹死ぬけれどもストーリーを進めるか?」と突きつけられても、ゲームの法則に逆らわずに死を受け入れていくことは「罪」でしょうか? 今まではピクミンたちの儚い犠牲を背負って進むしかなかった。プレイヤーとてただの人間でしかないのだから、その手で届く範囲しか救うことはできない。けれども、4のプレイヤーは時間軸に介入できる神様である。その気になれば救える神がピクミンを見殺しにすることと、ピクミンの死を受け入れながらもゲーム上仕方なく突き進むしかない人間は、結果は同じでも善悪ではどちらが正しいのか。「力」を持ってしまった神は、その能力をフル活用して「善」を行い続けなければ「悪人」になるのか?
 軽い気持ちでSwitchを握り、ストレス発散のためゲームを遊ぶ僕たちへ「神」の視点を与えるとは、なんと残酷なことだろう。ただでさえ自然界の残酷さを教え続けきたピクミンが、今度は「神のみぞ知る」苦しみすら試してくるのです。
 たとえプレイヤーがどのような倫理観で、なにを善悪の基準にしていようとも、そんな高次元の葛藤とは無関係に、ピクミンたちは何があってもあなたに従い、尽くし、運び、戦い、死んでいく。



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