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卵の殻を破らねば

 僕が最も美しいと感じている椅子は、リートフェルトの『レッド&ブルーチェア』であると以前書きましたが、実用性とデザインのバランスで言うなら、やはりアールニオのボールチェアに軍配が上がる。僕は毎晩ここで卵の中へ回帰し、殻の中へと閉じ籠る。元から閉鎖空間である自室の中でさらに籠る、狂った雛鳥。


 ボールチェア内での生活は非常に快適。
 見た目以上に奥行きがあり、内部はほんのりと暗く、外部の音も遮断されるので、「世界」から隔離された感覚になる。
 中でひたすら本を読む。目がしぱしぱと疲れたらゆっくりと身体を預けて眠る。なんと静かな時間なのでしょう。自閉症の自分にぴったりの、外界から隔絶された「閉じた」空間が生まれるのです。僕の日々の楽しみは、この状態で風を浴びながら本を読むことにある。


 ここ最近は「翻訳のセンス」に興味を持っていることも先日書いた。そんな折、偶然サルトルの『嘔吐』の帯に「名訳でよむ」と書いてあったので、通常の翻訳と名訳のちがいはどこにあるのか比較するのに都合がいいと早速Kindleで購入してみました。
 ボールチェアの中からスマホの画面を睨み、孤独な男が書き綴った陰鬱な日記をめくっていく。


 さて、Kindleにはお節介にも読書スピードを測り、読了までの時間を示す機能がある。文字へ集中している時に余計な情報を加えるのはナンセンスと思っていたが、いざ慣れてくると章の区切りが分かりやすく、休憩の目安になって助かる。本はできる限りアナログに楽しみたいが、便利なものは便利だ。まあ電子で読んでいる時点でもう文明の利器のありがたみを素直に享受しよう。
 で。今日『嘔吐』を読もうと卵の中からページを捲っていると、なんだかいつもと表示がおかしい。今までは「読み終わるまで⚪︎分」だったはずなのに、文面が丸っきり変わっている。


 「1時間50分が本に残っています」
 なるほど。こんなシステマチックな機能のくせして、詩的な比喩表現がすいと出てきた。Kindleは本の中に「時間」を閉じ込め、あなたはまだ⚪︎⚪︎分、残った文章を堪能し、泣き、笑い、心打たれ、非日常を過ごすことができますと、生意気にも「読書」という活字へのトリップできる残量を、また読み終えてしまい現実へと引き戻されるまでの猶予を表現するようになったのです。

 ……なんかさ、いいね。
 『嘔吐』を読み進めている最中にふと表示の変更に気づき、率直に「小粋だなあ」と嬉しくなってしまった。ちょっぴり恥ずかしい。Kindleアプリに、Amazonという巨大な富が打ち出すセンスにしてやられてしまった。悔しい……けど、いいね。これはいい一文だ。まあ偶然読んでいた本が本なので、この場合はあと2時間近く、吐き気を催すような男の自意識に付き合わねばならない時間であるのだが。
 といった日々を過ごしていく。青く深い卵の中で。明日もそうする。明後日もそうする。この頃にはサルトルも読み終わっているだろう。それでも明後日は別の本を読むでしょう。こうして日記を投稿して接続するタイミング以外は、アナタたちのことなぞ忘れてじっと殻の中に居る。
 卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。死んで結構。冷たい殻の中で外気に触れないまま静かに亡くなっていけるのなら、それ以上に素敵なことはありません。

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