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3時間の悪夢『ボーはおそれている』

 「そのヒクツさはすでに傲慢ですよぉ」という『さよならを教えて』のセリフが十数年印象に残ってあり、卑屈さで己の弱点を隠すたびに脳内で反芻する。今夜、観に行った映画でも強く脳裏をよぎった。

 『ボーはおそれている』。ヘレディタリーやミッドサマーのアリ・アスター監督の新作。両作ともに何度か観返すほどに好きであったので、タイミングを見計らってようやく鑑賞できました。なんと、本作は3時間もある。通常の映画であっても3時間は気力と体力をごっそり持っていかれる。そのうえアリ・アスター作品のげっそりと精神を削り続ける展開で3時間。なかなか気合いを入れて挑戦せねばならない。

 感想としては、まず非常に僕は好みの作品であり、そもそもヘレディタリーやミッドサマーを何度も観たのだから、「絶対に最悪になる」というある意味での安定感は保証されており、なんなら今回も監督は観客に最低な気持ちになってほしいと語っている。3時間。画面の向こうの世界に意識を持っていかれて精神に影響を及ぼすに十分な長さ。バッドトリップを修行の一環として好む極々一部の物好きには至高の体験。夢は、悪夢まで含めて夢なのだと思えば分かりやすいでしょうか。作品の核には触れないつもりですが、ここからは多少のネタバレも書いていく。


 監督とタイトルからもう予想がつくと思われますが、主人公のボーは極度の怖がりであり、彼の主観を通せばなんてことない街並みも異常者パーティで大パニック。水一本買いに行くだけでハラハラドキドキの大冒険である。そう、これはあくまで彼があまりに臆病ゆえの世界であり、ボーの視点では真実かもしれないが、主役が「信頼できない語り手」なのだから、ボーの目を通すしかない僕らにはこの時点で、なにが現実でどこまで被害妄想なのか判別つかない。物語は3時間余すことなく最悪なトラブルと異常者のオンパレードだが、いったい何%が本当にボーの目の前で起きたことだろうか。
 気持ちはわかる。ボーはまったく音を出して居ないのに、近隣住民はボーの部屋がうるさいと激しくノックをする。それも幻聴かもしれない。何度か日記に書いていますが、僕も全く同じだ。インターホンを切ったうえで実際に本当にノック音で起こされて以来、たびたびドアを叩かれている錯覚をおぼえる。ボーの毎日は、そんな過敏な妄想の連続。とりあえず謝罪から入るユダヤ人の性格や規律を守れなかった場合への自罰的な宗教性が合間り、ボーは全てに対して怖がり、怯える。
 アリアスター監督の恐ろしいところは、そんな統合を失調した精神世界の体現のみに収まらず、ボーの周囲に実在する悪人を配置していることだ。卑屈ゆえの被害妄想の中に明確な他者の悪意が潜んでおり、悪夢のブレンド具合によってボーの症状と思い込みは悪化する。そのうえでボー自体は宗教観とシングルマザーゆえの偏った教育により、こんな最低な主観の中でも清く、優しくあり続ける。が、彼にはもう現実と妄想の境目なぞない。なにもかも狂った環境において優しさや勇気なんて余計に場を混乱させるだけなのだ。自罰と卑屈が裏返り、まともな人を傷つける。彼の病気はさらに加速する。

 端的に地獄である。
 3時間という長い尺すら、監督による観客へのいやがらせ・恐怖体験の仕掛けでしょう。いつ解放されるかわからぬ圧迫感は日常でなかなか味わえない。ヘレディタリーはホラーとしての起伏に富み、ミッドサマーはグロテスクな展開の中にエンタメ性や画面の美しさを充分に宿していたのでヒットした。今作は完全に人を選ぶ……というか3時間なので上映館も限られている。わざわざ3時間、直接的なホラーでもなくジリジリと心が削られる映像を浴びたいか? 浴びたい人間も居るんだな。わかってしまう。卑屈で心を鎧に包むボーの感性も、愛憎入り混じる親との関係も、己を責め立て続ける自罰裁判も、わかってしまうので目が離せない。

 僕はバッドトリップも悪魔も含めて、「幻覚」「夢世界」だと思っている。楽しく愉快なことしか無ければそれは幻覚として二流なのだ。僕は悪夢も等しく愛している。


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