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匿名と個

 ふとネット上の喧騒について見かけるたび、もはやその内容はともかく、「人間は匿名だと無責任になるだけだ」と考えるようになりました。SNS上の半匿名アカウント含め。
 発言には責任が伴う。活動が大きくなるにつれ、若い頃の勢いで書いた/言った発言に苦しめられる。仕方がない。その時に浅慮であったのはたしかで、自分含めそれは誰にでもある時期だから。そうして人は年齢とともに責任が嵩み、発言に重みが生じて勢いは減る。ゆっくりするのは悪いことじゃない。
 立場が固まれば固まるほどに多くの人間から注目される。自ずと意識は変わる。よりたくさんの視点を知って魂が洗練されていくかもしれないし、単純に傲慢になるかもしれない。なんにせよ発言に責任が生まれることに変わらない。
 逆に、匿名であれば誰かわからない、個として認識してされないのだから、立場や責任も発生しない。怒りや嫉妬で我をなくして訴えられないかぎりは、ネット上において自由な存在である。個がないので比べられることもない。なので、どれだけ自分を棚に上げた発言をしようとも誰にも咎められることはない。
 人間は大して強くないので、匿名・半匿名の状態で気高くいるのも難しい。というか「名前のある状態」の窮屈さに嫌気が差して匿名で活動するのだろうから、むしろできるだけ頭を使わないでいたい筈だ。もちろん例外もあるとして、労力や知識をつぎ込んだ投稿をする場合は「個」であることを選ぶでしょう。
 どんなに偉そうな発言をして反論されたとて、それは自分でなく「モブA」がモブBにバカにされているだけである。サッとスマホを閉じれば、その瞬間に自分とは一切の関係がなくなる。元より騒ぎに便乗して何かを叩いている、過剰に持ち上げて気持ち良くなっているかぎり、反論や批判もめったにない。SNSや掲示板を開いて5分でできる極めて簡単なストレス解消であり、ちょっとした非日常的な刺激である。
 単純にネット上の人口が増加し、誰もが匿名・半匿名を生きることができるいま、「無責任な(攻撃性の強い)発言」が増えるのは当たり前であり、それに何かを感じたり反論しようとするエネルギーが無駄だ。物理無効の悪魔にひたすら攻撃することに何ら意味はない。なので、ネットの話題へ興味を持った場合は、すぐに一次ソースを確認し、自分なりの結論を出したら、無関係の野次馬の意見が目に入る前にシャットアウトする。他者の感想や批判を読む前に、自分が出した考えは持っておく。こうすれば大衆に紛れず「個」を確保できる。
 匿名が増加したということは、気を緩めると一瞬で多数の無責任な意見に流されてしまうことでもある。僕は明確に「ネットの意見」しか喋らなくなった人間に嫌悪感を抱いている。ネット民の意見なんてもはやどんなニュースや投稿のコメント欄に嫌というほど溢れているわけで、そういった場で自由な発言をしている分には構わないものの(息抜きは必要ではあるし)、僕からは進んで読みたくない。だから僕の前に持ってこないで欲しい。それだけです。
 念を押しておくと、僕は先ほど書いた通り、ネットはそういう場である、というか人口が増えてそうならない訳がないと考えているので、別に「あること」を問題視しておらず、なんならそんな状況において個を得たものが勝つだけでしょう。規模が拡大しただけで20年前からそんなものである。
 海外画像掲示板4chanの有名なコピペに「俺たちは全員アホだがそれは匿名だからだ。だからこそ時めちゃくちゃな行動で凄いことが起きることもある。だからこそ俺たちの行動や発言は外でやってはいけない(意訳)」といった主旨の長文がある。原文は英語なので僕の拙い解釈混じりで申し訳ないけれども。ちなみに原文はとんでもなく長いので、好きなところだけ切り取った。僕はこのコピペがとても腑に落ちており、正しく匿名の在り方そのものであると思う。何ならこの長文が生まれたのも匿名だからこそでしょう。
 自分が作品を通して海外のオタクと接する機会が増え、海外のコンテンツ(特にカートゥーン)を趣味で追っていることも相まって、海外のネット文化を覗きにいくことも多くなりましたが、文化は違えど、どの国も関係なく匿名の民度は大して変わらない。ある意味で世界は一つ。要するに発言に責任がなければ自ずとどこもそうなる。それでも人は混沌の中で輝く何かを求めて電子の海を漂う。冒険はいつだって刺激的なのだ。
 人間、社会や現実に疲れて頭を使いたくない時は必ずある。匿名が許される場で責任のない馬鹿馬鹿しさに身を委ねることを誰が責められるか。ただし、昨今のコミュニティはSNSやDiscordへ移り、半匿名となって当事者の目に届く、または直接送る形で意見を流れるようになっている。見えない場でやればいいのに(Discordは小規模ならそうだ)、コピペ内にある「外で匿名のような悪ノリをしない」暗黙の了解は時間とともに消え始めた。というか掲示板文化を経由してない層も珍しくない。が、まあ誰が何を言っても人の多さゆえにそうなるのだから、もはやSNSやニュースのコメント欄が荒れることすら気に留めなく(自然と読まずに流せるように)なりましたが。
 言葉は呪いに繋がり、たとえ匿名・半匿名であろうと攻撃性の高い発言はじわりじわりと自身の精神を蝕む。なので僕は他者からあれこれ言われる覚悟で、つねに感情や意見を日記の場で書く。別に他者は好きにすればいい。数年前、村上春樹が「文章が上等じゃないからSNSは見ない」と発言し、まんまとネット民はその発言に激怒した。みんなSNSに疲れつつある今なら、この発言はふんなり肯定寄りの方に傾くのではないでしょうか。
 

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