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 別にTwitterが沈みゆく船であることはどうでもいいのだ。僕は、這い寄る混沌だから、変化も混乱を楽しまねばならない。頼みの綱だったSNSが消えて、新天地を探してオタクたちが彷徨い歩く列に加わるのも一興だろう。
 実際のところ、僕らは準備がされている。
 noteのフォロワー数も、Instagramのフォロワー数も万を超えているし、ゲームクリエイターの肩書を使えば世界中からある程度の注目を得られる。むしろネットから離れて、製作に集中できるちょうど良い機会にもなる。Twitterへ夢中になった10年の間で、幸いなことにあらゆる場所へ自我の破片が突き刺さり、ネット上からいきなり僕の居た痕跡が消えることは無くなった。
 しかし、僕の同世代には、外部サービスと連携されていないアニメアイコンたちがたくさんいる。真に焦るべきは彼らじゃないのか。
 彼らは、流石に30付近になって落ち着き始め、現実世界である程度忙しいのか、みるみるツイートが減り、ネットの話題や流行作品に乗っかる程度、あとはちょっとした生存報告をする。Twitterが消えたら、それすら行えなくなる。
 それは、自我の消失ではないか。ネット上で生まれた、何千、何万のフォロワーなぞ居なくとも、のんびりとネット上のすったもんだを観測しつつ、時には自分の呟きが伸びてビックリした思い出があったりとか、意外な時に好きなアーティストから反応されたとか、小さな小さな思い出たちの塊が失くなるんだぞ。次のSNSは、こんなにテキスト主体である可能性は低いだろう。人類にテキストベースのコミュニケーションは早すぎたんだ。
 画像も動画も音楽も共有することができるのに、わざわざもっとも伝わりにくい文章を選択する理由は薄い。Twitterだって、ほとんど画像付きのツイートばかりが目立つでしょう。本当に「インターネット上の文章」というものが好きな人間なんて稀有なのだ。僕が、商業の色がつかない、深い意味もない、その日の感情をあるがまま書き連ねるだけの文章をメモ帳に貼り付け投稿する、テキストサイトの文化を絶やさずいようと使命感で動き続けているのも、Twitterやnoteで読んでくれている9割には伝わっていないと実感している。
 黒い背景に白い字が並ぶ「しょうもないアングラなWebページを読んでいる時」の感覚があればと考えているものの、一部の人間からはメモ帳長文は「お気持ち表明」にしか見えないそうだ。長い文章は、感情が刻まれた文章は、すべて「お気持ち」というムキになったオタクが感情的に書き殴った"小馬鹿にしていいもの"であり、その内容は特に理解せず、本文中の弄りやすい単語を適当に抜き出して嘲笑えばいいのだ。
 そんなことはどうでもよい。
 小洒落た画像を貼らねば、道化のように踊り狂わねば、誰も見てはくれない世界が始まる。それ以外の外野はコメント欄のモブとなる。僕らが匿名を捨て、アカウント名の仮面を被り、初めてネット上で得た自我は消滅の危機にある。今さら匿名の世界に戻れるか? 場末の片隅でエコーチェンバーで固まった名無しの集まりのなか、延々と恨み言を吐いて傷の舐め合いの日々に戻れるのか。
 それとも、もう現実世界へ自我の置き場を確立できたのか? Twitterから離れたら離れたで、あれだけ毎日ネットニュースやゴシップへ言及していた野次馬根性も消え、ひょんなことから創作の世界へ飛び入りできるんじゃないかと抱いてきた淡い期待や野心も、ぜーんぶひっくるめて「若気の至り」か。「遅れてきた青春」か。
 僕は、こうしてテキストサイトの灯火を消さないために、1000日以上毎日日記を投稿しているくらいですから、ネット上に散りばめられた、オタクたちの言葉のカケラが最も好きなのだ。「呟き」のカケラを集め、勝手に人格や生い立ちを想像して脳内でキャラクター化させ、ペルソナを眺めることが好きなんだ。
 自我が、自分の一部がだんだんと消えつつあることは怖くないか。痛くはないか。テキストなんてごく一部の偏屈者の文化になる。140文字の世界に煽られ感情が増幅されたアカウントたちは、次第に争いだけに夢中になった。現代において文章のコミュニケーションは「お気持ち」扱いなんだ。そんな媒体に「次の場所」があるのかな。

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