一口エッセイ:大人の「若いから大丈夫」は必ずしもウソを言っているわけではない
怒涛の3連打ち合わせがあったので疲れ果てて日記が19時になってしまった。こんなに遅れたのは初ですね。まあどうでもいいでしょう。全然違う話をするぞ。
相互フォローの方でなんらかの活動をしている方から相談がきたりすることが増えた。僕なんかでよければ適当に壁打ちくらいしたって全然いい。その際、たまに「いつかお礼させて下さい!」と言ってくれる殊勝な若者が居たりもします。そのたび思っているけれども、社交辞令でも本心として恩返しの姿勢を見せるのは礼儀やコミュニケーションとして大事ですが、実際はそこまで気にしなくて良いと考えている。
もはや僕は三十路を迎える。30だぜ、30。スパロボも30はこれまでの集大成だったでしょう。もう人生の全盛期は終わって、主人公じゃなくなったんです。それでも生きていかねばならないけれども。逆に、相談してくる10代後半〜20代前半の若き才能ある者たち。ここでいう「才能」は実力やセンスの話でなく、誰もが持っている「未来への可能性」ですね。そんな主人公たちのなんらかの役に立てた、または相談役として頼られた時点でこっちは満たされてしまう。
そう、僕らはすでに主人公ではない。しかし主人公でないからこそカッコいいポジションはまだまだある。「普段は飄々としているが実力は作中トップクラスの師匠」もその一つ。主人公一行が強敵に対して苦戦している真っ只中に颯爽と現れ、「やれやれ……」と巨悪を一撃で屠(ほふ)り、これ見よがしに「オレもちょっと腕が鈍ったかな?」と余裕をアピール。これになるしかない。比古清十郎や4部承太郎です。
そういった「余裕のある師匠」枠へ脳内でだけでも浸っていたいのだから、若者はどんどんムチャな相談を振ってきて構わないのだ。そのたび「……ったく。勢いだけは一人前だな」と気怠げに肩を回したあとになんらかの解決方の提示や支援をする。もはや完全に本人の中で気持ちよくなっているので、相談者はあんまり気にしなくなって良いのだ。お礼を述べたあと、生意気そうに生き生きと元気にしていればよい。それで迷惑をかけたとしても、師匠は「阿呆が……」とゲンコツかましながらスッと助けに来る。
若者は主観ではそれなりに行き詰まっているので「若いから大丈夫」なんて言葉を信じない。もちろん僕もそうだったし、実際綺麗事でしかない。が、やはり主人公でなくなった僕らと違って、主役に躍り出る可能性が2%.3%くらいは「若い」だけである。これは誰にでもどんな状況でもある。ただ、可能性はあくまで可能性でしかない。僕らにできるのは、そのごくごく僅かな可能性の種へ水をかけるくらいのことだ。僕ら三十路以降が主役に抜擢される確率は0.01%以下なんだ。どう足掻いてもおっさんはおっさん。おっさんなりのカッコよさを探求するフェイズである。なので、「若い(だけでも僅かに可能性はある)から大丈夫」が正しい。そう考えると大人はウソは言っていない。ただ数字が極端に小さく、針に糸を通すような賭けであるが、それで世界が成立しているので仕方ない。
なので、もし僕になんらかの恩義を感じている若者がいたら、なんらかの実益ある恩恵を与える必要は全然ない。なんか元気に暴れたり病んだりまっとうに成長していればよく、主人公のピンチもピンチでどうしようもない瞬間に、「よっ」と登場してやる。そのシチュエーションに掛けているおっさんとしてマインドがセットされている。見た目は中年でも心はストレイト・クーガーなんだ。そんな感じで思っていて欲しいぜカズヤも。
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