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ミュート機能と葛藤

 実装当時からTwitterのミュート機能に罪悪感を覚えて滅多に使用していない。そもそもタイムラインを見なくなった、深夜に好きなイラストレーター・写真家のアカウントを見て回る趣味に使う、あとは友人の生存確認くらいで、この程度だとそもそも「見たくないアカウント」が出てくるほど、何かをはっきり認識もしていません。
 なので、現状はTwitter側が想定している、「1〜2日に30分見るかどうか」のユーザーとなったわけだ。こうなるとマインドがTwitterにないため、タイムライン上の話題・問題がどうでもよくなる。「いまネットの話題なんか見たく無い!!!」と直感した瞬間にスマホを閉じればいいので、ユーザーをミュートすること、ワードをミュート設定する必要もあまりなくなった。もちろん一昔前はSNS依存真っ盛りであったので、「見たくないモノ」も多く、いろいろとミュートにしていたけれど。
 フォローしている人はもう誰もミュートにしていない。「相手を視界に入れない」ことがたとえ一方的かつ悟られないとしても、フォローしたからにはタイムラインで目にした時くらいは、相手の話を聞いてみるべきなんじゃないかと感じた。「相手の存在を(少なくとも自分の世界からは)消す」という行為が重く思えてきた。
 とはいえ、先述の事情から元よりSNSへの滞在時間がそもそも少なければ、わざわざそこで苛つくことも無いので別にミュートも行わない。見えないところでやればいいのに、余程しつこい突っ掛かり方をされたらミュートやブロックで対応するのかもしれないけれど……。できればなぜそんなに突っかかってくるのか知りたい・気になるし、昔は相手の発言を遡って人格を想像することもあったけれど、それもだいたいパターンが分かって、「恐らくその類型の域はでないだろう」と数分後には忘れることとなる。脳内ミュートだ。本当は頭の中でもシャットアウトしたくないのだけど、一人一人向き合ってたらおかしくなってしまうし、どんな人間にも不可能だ。それはキリストや仏陀の領分だろう。
 要するに、大してタイムラインを見なければ、本来ミュートやブロックを駆使するほどストレスや不快感を覚えることもないため、SNSへイライラが溜まった時点で「依存」だろうなと分かってきた。
 しかし、現代ではこれだけ気軽に何かを発信・観測できる、それこそフィルターを通して自身に都合良くカスタマイズできるツールがあるのに、それに依存しないのも非常に難しいでしょう。僕も作品のヒットを機に、賞賛も盲信も、罵詈雑言もゴシップも、全てこの身で体感してやっと「自身はSNSを見ず読む人は読むだけの日記で出来事や思考を発信する」スタイルが最も適していると気づいただけで。結果的に、偶然にもネット依存への荒療治が成功しただけに過ぎない。とにかく人間が嫌いになっただけとも言える。寂しいものは寂しいので、相互でフォローの人たちが話しかけてくれるのは単純に嬉しい。
 ズルではある。上京して真に孤独となった10代後半〜20代後半の人間関係・仕事はすべてSNSで築かれたのに、自分はそこで見てきた・感じたことをゲームで出し切ったので、ちょうどネットを介さずとも生きていけるタイミングで自然と離れる。たいていの人間たちが30前後で自ずと現実を生きるようになるので、僕だけ罪悪感を覚えることも烏滸がましいのも分かってはいる。
 近い世代のネット民からすれば、僕は「上手く売れたくせに不幸ぶっているカス」で、主観では「こういう批判含めて僕にもいろいろあるんだよ……」と思っている、むしろ特異な立場上の苦しみは以前より増していると感じているのだが、そんなこと含めて客観的には「いけ好かない作家気取り」とネットの人間たちに認識されるのは、自分がその陰湿空間の出身であるので痛いほどわかる。抜け忍なんだから見かけたら襲われるのも当然だろう。白土三平の世界観だ。
 擦れたサブカル若者から見れば、「あいつは基本的に嫌いだけど◯◯(書いた文章や作品の一部)は良いと思っている」と、「全体としては否定するものの認めるべき点もあるし、俺はそれを見抜けている」という態度を取らざるを得ないでしょう。それも分かる。仮に僕が二十歳前後で今の自身を見たら確実にそのスタンスを選ぶ。『にゃるら』という概念から、自分の興味ある点を抜き出し、そこは評価することでアイデンティティとして活用するはずだ。素直に受け入れられても困るし、僕は拗らせた思春期・アングラサブカルそのものであったわけで、むしろコイツらから見た悪役でないと張り合いが無いし、反面では実績の証明でもある。
 僕自体が通ってきた道なので全くもって自然な理として許容できる。だからこそ、なんにせよ「目に入ったから何か言う」程度でしかなく、2.3ヶ月後には何もかも入れ替わって向こうも僕も忘れていることを知っている。
 何もかも自分にとって何周かした体験なので(実はこのテーマを文章化するのも2.3度目だ。そのたび差異があるのでそこを楽しんで欲しい)ネット上の大半の出来事を脳内ミュートしている。拗らせたネット民・サブカルなんて「誰か俺の話を聞いてくれ!」を聞いてくれであり、アプリの機能まで駆使して渾身の叫びまでミュートするのはとても残酷に思えてしまう……どのみち今や見てないんだから同義なんだが。昔はそういった人の発言や創作物を遡り、自分の中で理解と納得をしていたんだが。自己満足でしかないけれど、勝手に分かった気になって主張自体は解釈してはいた。滅多に肯定はしなかったけれど。
 どうせ現実世界の方で数人そういったタイプの若者と関わるし……という、僕の内心での微妙な葛藤の話でした。
 

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