日本語の美しさと雪国
いつまでも鬱々とした文章を書き連ねたところで仕方ないので、ベッドの上でうーうー唸りながら考えたいたしょうもないことでも話しましょう。「日本語訳と日本語の美しさについて」です。こう書くと一丁前に大仰なことを考えてんな。所詮は僕の頭の中で行われる雑談のようなものですが、アナタも布団の中で暇を持て余しているならどうぞお付き合いください。
さて、寝転がって何もしていないと不安が襲いかかるし、かといって起き上がれはしないし文字は追えない、「意味」を認識するのがつらくて動画も重い。ということで、海外の配信者の動画を垂れ流す日々。英語だと雰囲気と単語でシーンは理解できるけれど、いざとなれば脳内から意味をシャットダウンできて便利。この習慣を引きこもって連日続けているので、いま耳から入ってくる言語はもっぱら英語。日本語の方が違和感覚えるほどになってしまいました。戦勝国は強いぜ。ちなみに沖縄にいた頃、英語を使うと露骨に不機嫌になるジジイは数人居た。エスペラント語で話すしかないね。
で、Englishの配信者たちは文化の違いでジョークのセンスが違う。具体的には暴力的で罵倒の種類が豊富。彼女たちの放つ言葉のキレを真に味わうには脳内で翻訳する必要がある。といっても、向こうで人気のシーンは切り抜かれて日本人のオタクが和訳してくれる。これで気になる場面で何を話しているか分かって安心……となるものの、翻訳というのはものすごくセンスが問われ、そればかりは勉強の精度だけではどうにもならない。ついでにサブカル的な素養もないとサラッとイカした表現を直訳してしまう。ですから、翻訳された動画を見た際、彼女たちの言葉の切れ味は翻訳者のセンスに依存する。もちろん、無償で翻訳してくれるだけありがたいのは大前提です。
ここは僕が繊細になってしまう点なので仕方ない。例を挙げます。ゲーム中、ある配信者の女の子同士が突然ゲーム内のキャラクターで殴り合いを開始する。平和なゲームで急に殴り合いが始まることに周囲は驚くものの、それは仲良しな二人にとって自然なコミュニケーションなんですね。このへんアメリカンな力強さがあって好きだ。殴り合いがヒートアップし、周囲のオブジェクトが壊れていく。その際に一人が放った言葉が、「things happen when when fightclub starts!」。これをある翻訳者はそのまま「喧嘩が始まったら当たり前だよ!」的な訳し方をした。
こちらでも充分に意味が通じる。が、もっと劇的かつ映画ネタを拾えば「ファイト・クラブが始まれば当然でしょう!」となる。彼女たちの脳内ではすでにゲーム内のじゃれ合いからファイト・クラブに発展しており、まるで映画のワンシーンのような決め台詞となっています。
ここで翻訳の差異が気になり、以前の日記にも書きましたが英語の翻訳に興味を持ちつつあるこの頃、そもそも「日本語」に変換するのだから、第一に日本語での文章のテンポ感・レトリックを重視せねばダメだと気づく。要するに「センス」ですね。日本語は見ての通りたいへん複雑。ひらがな、カタカナ、漢字が交わり、それぞれの使い分けに機微が生まれる。だからこそ表現豊かで美しいのです。僕らは英語のストレートな言い回しのカッコよさに日本語訳の繊細さをプラスして堪能している。こんな贅沢なことが自然に享受できるのも、日本に生まれたおかげで無意識のうちにこの複雑怪奇な言語がある程度身についたからです。識字率に感謝。もし、僕が別の言語で育った人間なら、こんな嫌がらせみたいな言語を学ぶ気には到底なれないでしょう。
ご存知、川端康成『雪国』の書き出しはこうだ。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」素晴らしい。端的な美が凝縮されている。一文として切り出されることが多いものの、続く「夜の底が白くなった」という情景が浮かぶレトリックが堪らない。
逆にこの文章が英訳されるとどうだろう。「The train came out of the long tunnel into the snow country」。なるほど、悪くはないけれど直球な情景描写となり、日本語での圧縮された美しさには遠い。なぜか、それは書き出しに「The train」なる主語が見えてしまっているから。
原文には主語がない。誰が長いトンネルを抜けたか明記されず、しかし僕らは自然と仄暗いトンネルを抜けたら雪景色が広がる様子を想像し胸踊らせる。そう、雪国の書き出しには「誰が」が抜けており、まるで自分がそこで一面の白を体感しているような錯覚が起きる。一人称が定かでないため「自分が」雪に包まれたような感覚になるわけです。物語の始まりだからこそ成立する珠玉の一文。無意味な枝葉を極限まで切り落とし、ただ雪の美しさだけを綴ったからこその名文。主語すら落としたことで英訳ではルール上「The train」と補足せざるを得ない。そのせいで味が全く変わっている。……という話をヴィトゲンシュタインが言語でどうと語る本の解説書で読んだ。
こんな難解な読み味をごく自然に受け入れられる。それはただ日本で生まれ、生きるために自然に感覚を学んだからに過ぎない。これは間違いなく幸運なことです。僕らは一文だけで長いトンネルを抜けた先の雪国へ主観を飛ばせる。これは単に文法が、言語が違うだけなのに。ならば僕はその幸運を浸っているだけでいい。そして、できれば自分の言葉で海外の人間たちの話を噛み締めたい。言語が広がれば他国の言語依存の感性が、そこにしかない美しさが理解できるのです。
言語の限界は世界の限界だ。
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