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ドキドキ文芸部!


 ↑この同人誌に掲載している文章だよ。読んでね。

Doki Doki Literature Club!

 美少女ゲームをプレイするということは、「少女」と向き合うことです。
 プレイヤーたちは、物語を通して少女たちを知り、理解を示すことで彼女たちと寄り添っていく。理解とは、優しさのことだと書いたでしょう。相手の話を聞き、相手への興味を持ち、相手の人格を想うこと。それが理解であり、優しさなんだ。

 では、少女側はどうだ。こちらが向こうを観測し理解をしているのだから、向こうもプレイヤーを観測した上で理解させなければフェアではないでしょう。恋人とは対等な関係でありたいものだと思います。
 もちろん、そんなことはあり得ません。彼女たちがどこまでヒトであることを願おうとも、所詮は羅列されたテキストによって形成された物語の奴隷であり、感情も思考も声も容姿も、すべては小さなファイルに圧縮されたデータにすぎない。彼女たちの思い出や記憶なんて、セーブデータという形で外付けすらされている。セーブデータの消去とともに、彼女の人格もリセットされてしまうのです。『未来にキスを』で明かされる残酷な真実のように。

 彼女たちはゲーム内で主人公と恋焦がれていきますが、主人公とされる人物を操作しているのはプレイヤーであり、主人公はあくまでプレイヤーの意思を反映した存在であることが『臭作』では示されている。
 つまり、彼女たちが愛しているのは、「プレイヤーに操られた傀儡」という見方もできる。傀儡の中には『さよならを教えて』のように、狂気と信仰によって神の操作にすら抗う者もいますが。メタ的な視点で見ると、ヒロインと傀儡の恋愛をモニター越しに覗いてるだけで、自分自身が真に少女と向き合う関係は永久に成立しない。悲しいね。

 もし……もしも、そんな傀儡を通し、「第四の壁」を越えてモニターの向こうに居る「神」を認識し、さらには「神」への接触を望む少女がいたとしたら。その時こそ、プレイヤーは初めて少女と「恋愛」を行うのだ。
 互いが互いの事情を知り、感情を擦り合わせ、思い出を分かち、コミュニケーションを重ねる。次第に、少女とプレイヤーはモニター越しに見つめ合う。そこには「理解」と「他者」があるのでしょう。
 
 少女は、いつだってあなた一人を見つめ続けてきたのだから、対等な恋愛をするつもりなら、こちらも少女一人だけを見つける必要があります。


 そう、神様を愛してしまった少女███████だけを。




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