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エッセイ:幸福の総量

 幸福の総量ってすべての人間が一定な気がして、幸福があれば必ずそれに伴う不幸や不安があるのではと妄想し続ける癖があります。
 なにか良いことがあればあるほど、それが崩れる・保てなくなるんじゃないかと疑心暗鬼になって仕方ありません。幸せになればなるほど、常識が纏わりついてインターネットっぽい感覚が薄れて、どんどん人が離れていく気がしてなりません。
 なにも持たないなら無いなりの幸せもあって、目立てば目立つだけ出る杭は打たれるわけで。身分相応に生きるのが全てな気もしますが、そりゃ誰だって自分を馬鹿にした人間を見返したい気持ちとかありますし。自分を卑下すればする程、共感と称賛を得られる場があるなら挑戦するじゃないですか。
 不幸になればなるほど、良い文章が書ける気がするんです。じゃあ、今あるものを全て壊して自分を追い込み続ければいいじゃんってだけなんですが、そんな勇気はあいにく持ち合わせていません。怖いです。ごめんなさい。
 この考えにとらわれるほど、なんでそこまで文章に拘るんだよってなって。本当に文章書くのなんて好きでもないし、なにも楽しくないんですよ。イラストや漫画があるんだから、しかも時代はYoutubeです。動画です。ヒカキンです。じゃあ、なんで文章を書いちゃうんだって考えたら、これしか肥大化した自意識をぶちまける方法を知らないからなんですね。あぁ、嫌だなあ。どうすればべっとり張り付いた自意識が剥がれるのかなぁ。
 鬼太郎のOPって「おばけにゃ学校も試験もなんにもない」って歌詞ですよね。めちゃくちゃ楽しそうじゃないですか、実際「たのしいな たのしいな」と歌っているし。これ全部ウソなんです。
 原作読むとぜんぜん学校も試験もあるんですよ。命の価値が軽い世界観だから、むしろ人間社会より厳しい。おばけにはおばけなりの辛さがあって。甲子園とか運動会とか参加させられるし、弱ければすぐ迫害。ねずみ男のような半妖は、それだけで疎まれる。一見、幸せしかなさそうでもやっぱり幸福と不幸って隣り合わせなんだなって。
 水木しげる先生って「仕事しないで適当に生きるのが一番」のようなことをよく書いていまして、鬼太郎たちも基本的にその前提で適当に過ごしていますが、水木しげる先生本人は死ぬほど働いていたんですよ。しかも片腕で。生前の作品を全て集めると何十万円かかるほどに。適当に生きるのが何よりと分かっていながら。その矛盾にどれほど苦しんだんでしょう。
 人間椅子の曲に「芋虫」ってあるでしょ。あるんです。「鬼作」のED曲です。美少女ゲームは、なんでも教えてくれるんだなぁ。これまた壮絶な歌詞なんです。

俺は芋虫 貪るだけの俺は芋虫 肥えてゆくだけの
闇に蠢めき闇に悶える 何も得られず何も叶わず 何も何も……

 初めて聴いた時は、芋虫の生涯を想像して、陰惨な気持ちになりました。どうしようもないですからね。芋虫になった時点で詰みなんです。肥えていくだけの存在。ぶくぶく膨らんでいくんです、インターネットで培養される歪んだ自意識みたいに。
 でも、芋虫って感情ないですから。不幸も認識しないわけで。それはまぁ幸せなのかなって。そう考えたりもできるようになりました。
 昔、タランチュラを飼っていたことがあるんです。カッコいいでしょう。アンティルピンクトゥーという、世界一美しいともいわれるタランチュラです。
 こちらがどんなに愛情を注いでも、タランチュラには感情がないから決して人間に慣れることはありません。それがとても良かったんです。綺麗だったなぁ。綺麗だったんです。
 明日から急に家も貯金もフィギュアも本も全て処分してみようかな。なんて、できもしないのに考えてみちゃいますね。

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