見出し画像

羨ましい

 太宰治は、「本を読まないということは、そのひとは孤独ではないという証拠である」と皮肉を書いた。

 僕もつねづね、実際のところは劣等感や私怨も多分に含まれているのですが、「何かを書かないということは、その人は誰かから愛されている」と考えています。
 ここで言う「書く」とは、文章に限らず絵や音楽でも良い。要するに、この世界にはなにかを書かねば、作っていなければ、誰からも見向きもされない人間や社会的な生活が壊滅的なものが少なからず存在しているのです。
 書かなければ誰も見てくれないのだから、そうするしかない。それ以外に自分の存在価値も魅力もありはしない。この世で生き残るために何かを作り続けていくことはごく当たり前である。でないと僕は存在していないのだから。
 何もしないでも接してくれる、遊んでくれる家族や友人が居るのでしょう。それなりの事務をこなせば立場を保証する職場や学業があるのでしょう。そこに存在できるから、誰かが見てくれるから書く、描く、作る必要なんてないのだ。画面の向こうの道化を演じなくていいのだ。
 ズルい。それは酷く羨ましいことだ。
 僕なんてもう、アカウントを作った理由すらそうですから。てんでダメダメですよ。僕は何もしなかったら誰も連絡なんてしません。誰も僕のことを憎みも愛しもしません。だからTwitterを始めて孤独を紛らわし、ひたすら文章を書き連ねてきたのです。今でも変わりはありません。昨日、アニメの脚本を書き終えたと発表した際にフォロワーは増加した。それまではじわりと減っていった。すべてはそれだけです。創作やエッセイを投稿しなければ、僕の存在価値はじわりじわりと削れていくだけなんです。
 書いてなければ、僕は著しく性格の悪い頑固で面倒な愚鈍です。こんなものに、誰も関わりたくはありません。メッキが剥がれぬよう、様々な投稿で鎧を纏います。
 僕は学校や社会で何一つ役には立ちません。ゆえに愛されることも、存在を認識してはもらえません。なので、とても羨ましい。書かなくても存在できる人たちに、ひどく嫉妬し続けています。そして遠くから皮肉を飛ばすことしかできません。僕は、とても羨ましがっているのです。

サポートされるとうれしい。