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一口エッセイ:数字と商品

 人から数字として見られてしまうことが、こんなに悲しくなるとは思わなかった。
 ゲームには開発とはべつにパブリッシャー(販売元)なる人々がいて、この人たちは製作物をより多くのユーザーに届けてくれるサポートをしてくれます。言語対応とか、セールタイミングとか、流通や広告とか、作品を作るのでなく良い作品を世に広めていくことが仕事とする、漫画の編集者のような立ち位置と認識しています。
 そのパブリッシャー側がニディガに関するデータをまとめて記事の形で公開した。読みたくないのでうろ覚えですが「NEEDY GIRL OVERDOSEはなぜ130万本までヒットしたのか?」みたいな、とにかくそんな感じです。その記事のツイートに4枚のパワーポイントが添付されていまして、それがまた数字がバリバリ書かれた円グラフやらなんやら。「◯◯万本突破!」「◯◯万再生越え!」のようなことがたくさん書いてあり、みごとに「商材」として扱われている。
 その光景がとにかく不快。記事に言及する知らない大人たちも意味ありげなワードを並べながら数字の話をしている。記事も誰も中身には触れず、また超てんちゃんとファン特有の距離感や関係も説明されぬまま、ただ「このタイミングでセールを打ち、この国での販売本数が伸びたので、そこを注目して〜……」と「商品」の数字の伸ばし方が並べ、他社への自慢とマウントが行われていた。商材だから数字で戦って当たり前なのだ。中身なんて関係ない。どうすればユーザーが笑ってツッコむか、どうしたら作品の世界観を表しつつ作曲家の才能をフルに発揮した曲が作れるか、発売後に右往左往しながらそれでもなんだかんだ楽しみつつ行ってきた想い出が、「施策」と呼ばれてパワポにペタペタと貼られていく。僕らが試行錯誤しながらも、やり甲斐を見出してやってきたことは、すべて商材を伸ばすための施策に回収される。
 そりゃ超てんちゃんは数字と承認欲求が直結し、その数字と自我との葛藤から数々の結末を迎えるヒロインなので「100万記念」には拘るし、人気になっていくことは僕も当然嬉しいし誇りに思うけれども、かといって数字を優先する商材だと認識したことは一度もない。この規模になってさえ、僕がほぼ全て監修なり打ち合わせなりをひーこら言いながら担当しているのは、一歩間違えると商業主義に呑まれてしまう危うさから拙作を守りたいからに他ならない。インディーであるかぎり、なにより作り手が自由でなければスタッフもユーザーも喜ばないと確信しています。
 別に記事の内容は間違っていないし、公開してもよい情報しか載っていない。これが大手メーカーなら正しい一手とも思えますが、こちらは数人で作ったインディーです。プロデューサーへ企画を見せた時だって「一年かけて開発費を回収できればいいから好きに作ってみて」という話だった。さすがに開発費分は販売できないと作品として成り立ってないですが、変なゲームながらも販売本数の最低ライン(1年で10万本が目標)は超えるような調整をしてきたものである。そんなものに戦略なんてあるわけがなく、あらゆる要因が歯車のように噛み合って連鎖し、それを受けた超てんちゃんがヒロインとして活躍したこともあって、人々に愛されることとなったのだ。
 「インターネットをテーマに時代を切り取る」試みなんて一世一代の挑戦であり、再現性なぞカケラもない。それを記事の読者たちは訳知り顔で「これは今後のインディーゲームは参考にしたほうがいいですね!」的なことを述べている。枠に囚われない殺意にも似た執念が核となる少数規模のインディー作品で、過去作の例を参考にしたって仕方ないだろう。それなら数字のデータだけを見ずに、中身に対して「こんなものより面白いモノを絶対にオレが作ってやる!!!」と怒りを持つべきだ。数字の実例を見ながら「この数字を参考に安全なラインを考えよう!」って、それはたくさんのスタッフを背負った大手メーカーの責任で、好きなものを作ることから始まるインディーの思想とは矛盾している。
 プロデューサーは、「大人」として今後パブリッシャーなりメディアと上手く付き合っていくためにデータを渡して記事を許可したと言っていた。「にゃるら(原作者)の気持ちもわかるが、大人が大人としてこういうことをしないといけない」と板挟みの苦悩を話してくれましたが、とはいえそれでは良い警官・悪い警官でしょう。ならもう大人サイドは「商品」を世に届ける善として堂々と胸を張っていてほしい。「自分の都合で大人と子供を使い分けるな」と富野監督もガンダムで書いていた。僕もよくやるけど! こうしてつらつらと不満を書き連ねる原作者だけがバカで面倒くさいから関わり方を考えよう、となってもらえればいい。「あの記事の数字を見て仕事を持ってくる人もいるよ」と話していましたが、どのみちそのような声掛けは断るに決まっているし。
 けれどもパブリッシャーは数字を自慢することが仕事で、プロデューサーは今後も作品を世に出すため人付き合いで大人をするし、僕はできるかぎり社交辞令や顔色を伺うことをせず自由にインディーをやる。こうして愚痴愚痴書くことは周囲から見て悪であるものの、立場上、悪でもみっともなくとも言わなければならない。ニディガを「数字」で見られることに抵抗する小煩い原作者であり、パブリッシャーは品性を薄めてでも作品を広め、プロデューサーはそのバランス役として塩梅に苦しみ続ける。各々が各々の主張と仕事をしたので、この話は終わりです。
 僕にとっては「作品」で「楽しいイベント」で、パブリッシャーやプロデューサー側は「商材」で「施策」であることは、視点が違うだけで一致している。このような大人の事情に歯を噛み締めながら持ちつ持たれつでやっていくしかない。皆が皆、それぞれの信念と仕事がある。

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