見出し画像

エッセイ:愛されたがり

 高校生の頃、思春期らしく親への不満が爆発したことがありました。
 母親の再婚からの義父による圧迫感が主でして、「片親で適当に育ててきて何も教育しなかったのだから、それで二人でのんびり暮せば良いと思っていたのに、自分は男を捕まえて結婚して、それでいて急に僕がなんの取り柄もないオタクであることを非難するようになった!」的なことを言ったと思います。なにぶん昔のことなのでうろ覚えではありますが、ざっくりこのような感じに。
 それを聞いた母親はずっと黙っておりましたが、義父の方は「愛されたがりだな」と一言残して笑いながら自室へ帰っていきます。
 すごく、ショッキングだった。
 たしかに義父の言う通りです。要約すると「もっと自分を見てくれ」といったことしか主張していない。母親は僕を教育で雁字搦めにするよりも、のびのび生きさせることを選んだのだし、十数年独り身で耐えてきたのだから再婚だって責めることはできない。ダメなオタク少年であるのは、自分が努力してこなかった結果なわけで、こうなると全ては僕の責任です。

 当時は、それを「愛されたがりだな」と纏められたことが悔しくて仕方なかった。今だって、義父の存在は憎くてたまらないものの、その一言に関しては認めざるを得ない。母親からの愛情を知らない男に取られたことをぐだぐだ引きずって、まるで未練がましい元カレでしょう。そう表現すると、気持ち悪いったらありゃしない。

 その強烈な体験を覚えたまま時は過ぎ、インターネットでいろんなアカウントを覗いていると、これはいろんな意見と知識で武装をして他人を叩いているが、本質は「愛してほしいだけ」だなと感じることがあります。
 愚痴愚痴言ってもバカではないのだから、何かを叩き続けていたって自分が幸せになることは無いと分かってはいることでしょう。それでも感情を発散したいときだってありますけど、毎日やっていても人生が改善することはない。一枚も買ってすらいない宝くじが当選しないか期待する生活。
 これはなんなのか、あの時僕がやっていたように、自分に問題があることを自覚しておきながら、それが認められない状態じゃないのかと。こんな不幸な自分がここにいるよと誰かに見つけてほしくて、そして認識して欲しいのだろうと思っております。別にそれを責めることはないですけど。

 しかし、泣き喚いていたら無条件で愛されるのは赤子に限った話で、思春期どころか年齢的には立派に成人した僕らは、人から認められるには行動をしないといけないのだね。どこかで努力を積む必要がある。大きすぎる承認欲求がバカにされることは多いけれど、承認を求めて、愛されたくて行動することも、十分に理由であるでしょう。
 いわば、母親だって義父に愛されるために、一人息子がせこせこ部屋で引きこもってゲームしている間、行動を重ねていたのだ。そして、美容師として仕事をしていた義父の心を射止めた。二人は当然のように行動と活動をおこなっていた。その間、僕はなにもしなかった。
 であるなら、義父は僕が無能なバカに見えて仕方ない。なにもしていない子供が「産んだんだから責任持って愛せ」と、血がつながっているだけを根拠に、そうさせる努力もせずに主張しているわけだ。実母は返答に困っても、結局は他人である義父は「愛されたがりだな」と一蹴できる。それは、ある意味で、僕に存在していなかった「叱ってくれる父親」としての役割を果たしたのかもしれません。ムカつくぜ。

 そんなこんなで紆余曲折あったものの、今はこうして曲がりなりにも文章を書いて暮らしているのだから、親としてはバカでオタクなダメ息子が、まぁまぁ自立できた現状を褒めるべきではないでしょうか。何万人のフォロワーに称賛されるのも嬉しいですが、母親に一人の男として認めてもらいたい気持ちもある。
 もし、もし僕がもう一度でも母親に会うことがあるのなら、その時は思いっきり今まで頑張ってきたことを報告してみたいものです。
 

サポートされるとうれしい。