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一口エッセイ:構ってもらう側と攻撃

 昨日は「構う側、または構って欲しいとせがまれる側」の話をしたので、今回は構ってもらおうとする側の視点で考えてみよう。
 まず、構ってもらう、自分を見てもらうには正当な努力をする必要がある。この世に娯楽や仕事が溢れている状態で、自身に時間を費やしてもらう、そんな贅沢のためには相応の対価を示さなければならない。相手が興味のある、役に立つ行動や成果物と引き換えに時間を頂戴する。
 が、そんな真っ当に努力し続けられるほど人は強くない。ならばどうするか。「攻撃」する。誰にも気づかずに喚いていても放置されるだけですが、攻撃すれば向こうは「抵抗」しなければならない。殴りかかる相手の攻撃から身を守らなければ倒れてしまう。
 攻撃といっても各人で意味は全くちがう。
 友人・恋人の行う可愛いじゃれ合い程度のものだってあるでしょう。少ししつこく連絡するとか、それこそ好感度によってはむしろ愛しく思えるような素振りだってあるはず。その場合は問題ないので例外だ。そんな気軽に接することができる相手がいる幸運を噛み締めるだけ。そういった相手がいるほどに何かを頑張った証ともいえる。
 しかし、世の中都合のいい相手だけではない。よき友人や恋人であっても無視せざるを得ないほどウザがられることもある。そうなるとじゃれ合いも攻撃とみなされる。
 いろんな方法があるけれど、シンプルに相手への嫌がらせも手段にある。ただ相手の文句を書き込む。すると相手はムズムズして止めたくなる。触れないとまずい事に発展するんじゃないかと恐怖を強いられる。その予感はたいてい当たる。愚痴や文句を書いても無視されるなら、次は反応されるまで秘密をバラしていく他ない。相手の秘密を知らなければデマでもいい。向こうの発言を最大限に「悪く」解釈して誇張して話す事で、デマでもない事実を話す手もある。なぜか筋が通っているかのような口ぶりのアンチはたいていこれでしょう。都合の良い拡大解釈や難癖。相手が反応して構ってくれたら勝ちで、構ってもらう側に落ちる評判やプライドがなければ無敵状態だ。
 そんな方法までとって何か意味があるのか。ない。けれども、攻撃しないと誰も味方しない、見てくれない、または攻撃対象にどうしても相手して欲しいなど様々な理由はある。やっぱり相手のことがある程度、もしかしたらだいぶ好きなのだ。そんなこと口に出せるわけがないかもしれませんね。同族嫌悪って自己愛と表裏一体なことを認めるのはさぞかしお辛いでしょう。
 悲しい。が、本来そんなことはめったにない。なぜならほとんどの人間は失うものがある。だからみっともなく表で「攻撃」なんてしない。それで得られる恩恵、集まってくる人間のしょうもなさも知っている。時に心が弱って構ってもらわねばならない瞬間があり、その際は暴れて他人に迷惑をかけたとしても、人は反省や謝罪ができる。むしろ成長の機会ともなるかもしれない。僕もよく睡眠薬で暴れて失敗し続けた。流石に今はそんなことが無いように保っている。僕はバカだから何度も失敗して身体に痛みを刻みこまなければ覚えられなかったけれど、皆さんは僕なんかよりはるかに優秀なので1.2度の過ちで学習するはずです。
 けれども、そうでないパターンもある。失うものが、大切なものが手に入らなければ、無限に何もかもを攻撃できるし、闇雲に殴っても威力がでないので、だんだんと過激になる。人を殴る能力だけが発達していく。そんなの悲しすぎる。誰も止められない。下手に触れると自分が殴られるから。どこかで自覚して自分で「正当な努力」を行い、責任やプライドを背負ってもらう他ない。しかし、自分が殴られてまで他人に正論をぶつけられる聖人がどれだけ居るか。誰も無意味に殴られたくないんだ。痛いのは嫌だ。
 殴らずに構われる方法もある。自傷です。「構ってくれなければ自分を傷つけるぞ」と遠回しに脅迫する。時に人は自分の痛みより他人の痛みの方に敏感になる。それなりに相手へ好意がある/あったなら、自分が殴られるよりも、相手が自身を傷つける姿の方が心が痛い。そこを狙う!
 この手法は「殴る」より危険だ。相手の疲弊度が段違いで、次第にちょっとのことでは駆けつけてくれなくなるから、最終的には「死」をちらつかせる。どんな相手も自分のせいで人が死ぬのは避けたいはず。こうすれば相手は強制的に振り向かざるを得ない。が、相手だって人間なので単純に疲れる。なんなら相手も壊れるかもしれない。「ホントに死ぬよ!?」と言っても反応しないなら、どんどん屋上へ登る様子を見せるしかない。一ミリずつ両足は端に近づく。それでも呆れた相手は無視をする。これ以上構っていたら己の精神が死ぬから。が、構って側も反応してもらわなければ引くに引けない。このままだと落ちちゃうよと言わなければならない。それでも無視されたら……。当然誰も幸せにならないが、代わりに「呪い」として相手の中で生きられる。それも数年で消えるでしょうけど。悲しい。
 結局、バッドエンドを避けるには、どこかで「正当な努力」を経由しなければいけません。けれども、「努力をしない理由」はみんな無限に待っている。あらゆるものに責任をなすりつけることも可能だ。国や有名人に罪を見出して殴り続けても向こうから殴り返されることはめったにないし。それで幸福に近づくかはわからない。
 いろんな罠がある。やはり人は孤独では生きられない。スマホに文字を打ち込むだけで構ってもらう方法はたくさんある。だからこそ危ない。これ以上は考えない。答えはない。ここから先は宗教の領域である。または無条件の愛か。そんなもの人間が持てる大きさにないよ。

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