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一口エッセイ:スマホから切り離されていく自我

 はっきり言ってしまえば、Twitterを、延いてはネットを眺めている時間自体がかなり減った。意識して減らした部分もある。SNSかブラウザを開こうとした瞬間、思い直してKindleにする癖をつけた。そのうえで、今はもうしばらく僕はネットで得られるものより、別のものを知っていった方が楽しいだろうと確信もある。
 ニディガを完成させた時点で、僕の中のインターネット観は詰めるだけ詰め込み、もう数年は新たにネットに対して表現したいこともない。今後もニディガの企画でだけは、基のテーマなんだからネットの話も書いていくものの、自分の中でも一旦の結論がでてゲームに組み込めたと感じでおります。なので、別の場所の見識を広める方が新鮮でわくわくするのだ。
 不思議なもので、あれだけ張り付いていたタイムラインも、深夜と隙間時間くらいしか覗かなくなるうちに、みるみる自我が切り離されていく。具体的にはネット内の事件がどうでもよくなり、気にならなくなる。自分とは無関係であってもネットの珍事件はおもしろい。言及はダサいから避けるにしても、やっぱり面白いものは面白いのだ……と思っていたのに、今やそれもどうでも良くなった。ネットの揉め事のパターンもだいたい経験し、だいたいの顛末が予想できる。なにより、そこに意味なんてないことも。
 「意味がない」ことは重要だ。無意味なことに時間をかけるからこそ贅沢で、贅沢は生活を豊かにする。ネットのしょうもなさからしか得られない知識も体験も多々あるでしょう。けれども、今の僕はそこを必要としていない。ただそれだけ。ちょっぴり悲しくもある。まともな人間から見たらとてもとても小さなネットの出来事で、泣いたり笑ったりしなくなるということだ。「寝る前に文章を投稿しにくるだけのやつ」が、タイムラインの感動にただ乗るするのも卑怯だし。僕の感動はここには無くなったわけです。

 スマホを見る時間自体も減らした。スマートフォンの代わりに、なにか触りたくなったら枕元に置いたSwitch Lightを起動するようにするようにしている。最近は逆転裁判とか、美少女ゲームの移植を触って懐かしんだりしています。ネットから離れたら、次はノベルゲームへの愛が再燃した。ボタンをポチポチしてひたすら文字を追いかける、クソ怠い過程が楽しくて仕方ない。安心する。『逆転裁判』なんかは、テンポよくボタン操作や必殺技的なSEを入れることで、文字を追う以上のゲーム的な快感も詰め込めれているので完璧。「遊びとして楽しいノベルゲーム」への真剣さが触っていて嬉しい。
 しかし、こうしていざTwitterから離れられたことでの罪悪感は大きい。なんだかみんなを裏切っているような気持ちになる。が、本当はなんだかんだみんなも「現実を生きる」時間があることを知っている。というかそれでも学生や社会人より、離れたつもりでいる僕の方がまだネットを見ている可能性もある。一昔前の僕は朝から晩まで、正確には朝寝て夜起きるのですが、四六時中ネットに張り付いていた。紛れもなく依存症だったし、ツイートへの反応ひとつに一喜一憂していた。ある意味、「真剣」でした。
 ということを振り返ると、実はネットの友人やフォロワーなんかよりも、「あの日の自分」へ申し訳なくなっていることに気づく。あの頃の僕はネットに張り付くしかアイデンティティがなく、精神を損なうレベルの依存を誇りとしていた。「ネットが好きだ」と言うくせにどんどん投稿も減って、アカウントを放置したり一般的なことしか言わなくなる人間を見下してすらいたのです。なんということだ、それは現在の僕だ。
 過去の僕からすれば、今の自分の体たらくに呆れてものも言えないだろう。まさか自分が「スマホ見ているよりも大事なことに気づいた」なんて言い出すとは。許せねえ、嘘つきやろう! と怒りつつ嬉しくもあるだろう。結局、ネットを触らない間はノベルゲームや映画、本にアニメだ。そして興味の対象はもっぱらスピリチュアルと宗教。比率がズレただけで根底は変わらず、しかもそれはいずれネットに復帰するための準備のようなものでもある。
 いろんな寄り道に逸れて遠回しを堪能したあと、再びスマホにかぶりついた時に見える、青白いモニターの先の景色の変化を知る。所詮、現代人がこんなに最適化された文明の利器から、寂しさを他人の寂しさで誤魔化し続けられる謎の機械から逃れることはできない。
 しばらくはネットに関してはニディガ関連だけで表現する。そこを封印してやれることやってみるさ。ダメだったら恥ずかしげもなく、しれっ戻ってくるよ。どんなやつでも必ずなんらかの居場所があることが何よりココの良いところだからね。


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