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ANIME絵コンテと家族コンプレックス

 土日は世間では休日であるものの、アニメ製作が始まったからには週末だって関係がない。今夜からは絵コンテの打ち合わせが始まる。僕が脚本を書き上げたので、次はそのストーリーを画にする工程へ。
 「絵コンテはアニメの設計図だ」「絵コンテさえできれば究極的にあとは努力で完成する」と教えていただいた。漫画で言うところのネームですね。設計図が用意されたことで動きとセリフが決まっているのだから、あとはアニメーターも作画も気合いでそれを描くのみとなる。脚本作業を終えた次は「総監修」として書いたシナリオをどう魅せるか、効果的な構図やタイミングをひたすら相談していくのです。
 長い時間をかけて設計図ができあがれば、次は僕がアニメーターたちへ土下座して、少しでもカッコよく/可愛くしてもらう工程へと移ります。こういうことを最低でも2年繰り返す。たくさんの人間と会い、助け合う。ぶつかることもたくさんあると想像して今から胃が痛いですが、いつだって自分の生み出した文字が絵になっていく様子に、かけた苦労の何倍もの興奮を覚えてしまうのでやめられない。

 今回、自分の中で特にキャラクターのファッションには拘っており、それは視覚的なものゆえ文章ではなかなか表現できない、アニメならではの機会だからです。単純に僕が服やアクセサリー好きというのもあるけれど。お久しぶりさんがラフを見せてくれるたびに小躍りしている。イラストレーターの手を通して、自分の想像もつかない芸術が形作られる瞬間は、日々のストレスも報われるというもの。ファッションに拘れば拘るほど動かすのが大変なわけで、もう既にアニメーター班への申し訳なさで床に頭を擦る準備はできている。
 僕が地面に血を滲ませることで、リボンやフリルが優雅に揺れるのであれば望むところでしょう。
 で。本題はここからで、僕はこの一年みんなに黙ってアニメの脚本に悩み苦しみ続けてきたわけで、次は「絵」のために東奔西走するので単純に休みが無い。実はアニメ以外にも仕事を結構入れちゃった。小説も漫画原作も作詞もやりたいから……それらはどのみちアニメへの糧となるわけであって、遠回りのようで近道だ。
 アニメ脚本と並行で小説を出したことは大いにシナリオへ影響したし、漫画原作の経験によるテキスト→絵のフローはもちろん、断続的に作詞の仕事があることで音楽へ関わるうちに、作中での音楽の魅せ方、というか本編内の作者そのものに関係するでしょうし。結局ぜんぶやらないといけないし。アニメまでの2年間でそれらも順次発表されていく。
 こうなってしまったからには、僕は体感的に一日だらっとする真の意味でも「休日」を過ごした感覚は、ここ2.3年で数えるほどしかない。つねに何らかの締め切りに苛まれている。
 最近、プロデューサーに「そちらが忙しいのもわかるが育児で忙しいと言われるたびに強く嫉妬し、それは僕の忙しさと違うのでズルく思ってしまう。けれども、家族と過ごす時間を大切にしていることに何の罪もないし、自分がめちゃくちゃ言っているのもわかる」と話した。
 プロデューサーは、真っ先に僕が現状をそのまま言語化して話したことに驚いた。言われてみるとたしかに具体的に全てを喋り過ぎていてウケる。
 周囲の大人がだんだんと家庭を持ち、そちらに時間を割くことも増えたことに、どこまでいっても「血のつながった家族が居ない」僕の孤独は刺激されてしまう。正しくは母親が生きてるっちゃいるが、もう顔も忘れてしまった。だから、仕事の話で「その日は娘の世話で忙しい」と言われるたび、育児疲れと娘への愛情が入り混じった父親らしい表情がまぶしくて耐えきれないのです。
 もう付き合いも長いので、プロデューサー側もおまえがこのことでつねに苦しみ続けていることはたいへん理解できるが、「家族」の概念が根本的すぎてしてやれることもない、と悲しそうにする。代わりに事務作業なり税金がどうとかを手伝ってくれたり、美術の取材も兼ねて来月オランダへ連れて行ってくれたりする。仕事仲間や友達に非常に恵まれたと思っている。
 だからこそ、その仕事仲間や友達にも、僕とは別の「家族」があることが悔しいとも言える。結局、僕は本を出そうとゲームを作ろうと、次はアニメを放送させようとも、「身内」に褒められることは無い。その虚無を埋めるために創作を詰め込んでいるのだから、満たされてはいけない器でもあるのだけど。
 僕のこの怨念は大きな原動力となって、きっとアニメも完成させる。そうじゃないと家族どころか存在価値も消失する。だから僕はできる限り理想に近づけたテレビアニメをきっと放送させることでしょう。それを褒めてくれる身内が居るかどうかは、薄い望みの仮定として。

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