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「インディー」の概念とロック

 インディーゲームの定義が話題です。
 といっても、一応自分もインディーでの作品をリリースした身として、昨今の「大規模で開発されているインディーゲーム」という在り方には、都合よくインディーという概念が利用されている感覚をおぼえる。とはいえ、大手の作品がハイクオリティすぎて大手もインディーも身動きとりづらい環境もあって仕方はないけれども。
 最近だと出版社がインディーゲーム部門を立ち上げたり、ゲームメーカーが小規模なチームを切り離してあたかも同人的な見せ方をし、インディーを自称する。要するに、大手がちゃっかり絡んでいるうえで予算がある。大手出版社好みのわかりやすい企画を通して、向こうの言い分を聞きつつ予算をもらって製作する作品がインディー的か? とは疑問で。
 かといってニディガも数人開発での小規模ではあったとはいえ完全な個人製作ではないわけで。しかし、自分はなんか偉そうな人たちのご機嫌を取りながら製作しているものがインディーであると思いたくはない。では、自分の中での定義は「誰かの顔色を窺うことなく作られたもの」を、インディー(独立)と解釈しよう。環境や関係でなく、「魂」だけで見る。まったくもって主観すぎる!
 話を少し戻しますと、現代では「きちんと面白い」ものは大手メーカーがハイクオリティで作り続けており、そして大規模ゆえにある程度のクリーンさが保証されている。そういった現状で、元より王道でなく作りたいもの、現代の身綺麗な体制に満足できないもの、ロックンロールを持つものをインディーとしましょう。これなら先日のインディー業界での揉め事も分かりやすい!
 「作りたいものがあり、それは明らかに大手を怒らせるようなテーマであった」。これは問題がない。そういった反骨精神がなければ世界は正しいもので埋まってしまい、それでは救われない者もいる。まあ、それがただただ露悪だったり実力不足なこともありつつ。「反社会的」なことが創作において許されない方が狂っている。
 で。誰かを怒らせても進む信念があれば人はついてくるわけで。目的のある人物に対し、大人たちやユーザーはだんだんと味方する。どんなに側から見てしょうもなくとも、その状況自体は存在するべきですね。
 そのロックを人々は信じていたのに、いざ長いものから怒られた際、「自分たちはこっそりやってるだけなのに強い者からイジめられてます!」と主張しちゃうと醒める。もはや正当性や根拠なんてどうでもよくて、「この人は偽物のロックンローラーだったんだ」と周囲の人物たちが幻滅し、助け舟も出せなくなる。
 「なにがあっても自分たちは信じる歌をうたう、そのためにお行儀いい今を破壊する必要がある!」とギターを掻き鳴らせば、まだまだ人がついてきた筈で。しかも開発規模的にはそこらのメジャーなメーカーよりもデカかったりするし。
 誰かに怒られた瞬間に演奏をやめる人たちを応援し、インディーと呼べるか。誰かの顔色を窺うのであればそこには社会と秩序、外交があり、独立部隊では無い。魂に火が灯ってさえいれば、細かい問題や規模が拡大していくゆえの悩みも、後に創作へ昇華されるのに。
 マリリン・マンソンが「キリスト教から抗議がきたので、もうアンチキリストのスーパースターを辞めます。聖書も破りません。アーメン!」と宣言したらどうする。もちろんマンソンは多くの会社が絡んだメジャーアーティストもいいところではあるが、どんな状態でもロックンロールとゴシックを貫いた。YouTubeのコメント欄はオフにするけど! マンソンは存在しない神の奴隷じゃない。
 どんなに事実と異なるとしても、僕の主観では、「ソーシャルゲームでお手軽に美少女を氾濫させた末に、モニカによって日本の美少女ゲーム業界はトドメを刺された」と不甲斐なさに打ちのめされ、だからこそ自身の信ずるゴスガール・あめちゃんを創造し、海外へ日本発のサブカルチャー精神を取り返そうと決意し、その憤りは現実にもついてきてくれていると確信がある。


 僕は今でもぜんぜん「ネットで散々暴れて結局就職するやつら」へ怒っている。どんな批判も人格攻撃も内容はどうでもよくて、「でもお前も数年後に就職してだんだんオタクでもなくなるんだろ」という諦念にキレている。まだまだ不登校のバカガキを無視してきた大人たちへの怒りは消えることはない。今は「はやく請求書送ってください」と方々から連絡が来ていることへまったくやる気が出ないことへ悩んでいますが……。
 僕らは存在しない神の奴隷じゃない。

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