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僕と翠星石の日々


 「ですぅ! はやく起きるですぅ! 3分で顔洗って食卓に来るです。元気な朝は翠星石のスコーンから!」

 朝。栗色の長い髪を揺らした少女が男の腹部へ飛び込む。彼女の身体は球体関節の人形で、男の半分もない大きさであるものの、彼よりも元気いっぱい縦横無尽に部屋中を跳ね回る。
 「どうですぅ? 翠星石の焼きたてスコーンは! 女子と話すことすらできないオタク人間には本来味わえない贅沢品なのですから、一口一口を神に感謝するように堪能するといいですぅ!」
 朝からガミガミうるさい少女人形も、男が美味しそうにスコーンを頬張るのを確認すると、強張った表情が自然と崩れていく。
 「まったく寝起きだからって、なんて間抜けな顔してるですか。はぁ……まさか翠星石もこんなオタク人間と契約することになるなんて、なんと不幸な薔薇乙女なのでしょう。しくしくなのですぅ……」
 毎日毎日、このような小言と泣き真似を続けているが、彼女はこんな何気ない日常に安らぎを感じており、「オタク人間」と呼ばれる冴えない男も同様であった。
 「また、その"すまぁとふぉん"ばっかり見てるですか! すぐとなりに超絶可憐な翠星石が居るというのに失礼なヤツですぅ! ……って、急にこちらへカメラを向けるなです! おまえ、レディをなんだと思ってるですか。はぁ。こんな家、一刻も早く出て行きたいですぅ」
 顔を真っ赤にして頬をぷくっと膨らませた翠星石が「わたしの写真が欲しいなら、言ってくれれば……」と小さな声で漏らしたものの、男には聞こえていないようだった。その鈍感さにますます苛立っているなか、男はマイペースにスマホの画面を彼女に見せつけた。
 「なんですぅ? 水族館? ここに翠星石を連れて行ってくれるですか!? よ、よろこんでなんかないですぅ! オタク人間がどーしても独りで行くのが寂しいって頭を下げるなら、この優しい翠星石が一緒におさかなやペンギンを観に行ってあげようか考えてもいいですよ!」
 素直になれない思春期乙女な人形に対し、男はストレートにふたりで行きたい旨を伝える。
 「……わ、わかったですぅ」
 彼女の再び朱に染まる。こんどは怒りでなく、照れと喜びによって耳まで真っ赤になった。

 「水族館たのしかったですぅ。オタク人間、また翠星石をお出かけに連れていくですよ。お次は動物園にするですよ〜♪」
 翠星石が嬉しそうに鞄の中から顔を出す。すっかり空は夕焼けで、オレンジ色の光が栗色の髪を透かして綺麗に光る。
 「つぎは蒼星石も連れて行ってやるです! 蒼星石は妹ですが、わたしよりしっかりやさんなんですよ。こ、こら! 翠星石が姉らしくないって笑ってるですか!? キ〜ッ!!」
 カバンの中で小さな人形がドタバタと暴れ回る。そんな愉快な様子に笑みをこぼした男は、思わず「ずっとこうならいいのにな」と口に出してしまった。
 「……本当は翠星石だって、そう思ってるですよ。でも、それはダメなんです。おそらくわたしがおまえの元に飛ばされたのは、おまえの心の樹が枯れる寸前だったからですぅ。優しい翠星石が、毎晩夢の中で如雨露でオタク人間の樹に水やりしてやっていたですぅ。そのうえで早起きしてスコーンまで焼いてやってたんですから、頭が地面に埋まるくらい感謝しやがれですよ!」
 男は知っていた。この奇妙な同居人が、自分の夢の中で心の平穏を育ててくれていることを。
 「きっと、今も夢の中みたいなものなのですぅ。おまえの心の樹がもう少し育ったら、翠星石はまた別の場所に行くのですよ。だから、たぶん動物園は一緒に行けないのです」
 話しているうちに二人はアパートに着いた。周囲に人が居ないことを確認すると、翠星石は鞄からぴょんと飛びだし、扉を開いて男を出迎える。
 「なに悲しそうな顔をしてるですか! この翠星石がおかえりって言ってあげますから、おまえは嬉しそうにただいまと言うですよ!」
 男は「ただいま」と言いながら中へ入る。玄関先の翠星石は「おかえりなさい」と返すと、そのままぱたぱたと廊下を駆けて台所へと向かい、エプロンを着けて夕飯の準備を始める。
 「難しい話は嫌いですぅ。とにかく今は翠星石との日々をありがた〜く満喫するですよ。まったく、おまえは身体がデカいのに翠星石が居ないとダメダメだから心配ですぅ〜。本当に一人で暮らしていけますかねぇ……」
 夕飯を終えると、すっかり夕陽も落ちて月が昇る。電気を消した自室で、男はベッドに、翠星石は鞄の中へと潜って明日へと備える。
 「また夢で水を撒いてあげますから、心配するなです。徐々に樹も良くなってますので安心して眠るがいいですぅ。おやすみなさい、マスター」
 月明かりに照らされた二人が眠りについた。


 ──スィドリーム わたしの如雨露を満たしておくれ。甘ぁいお水で満たしておくれ。健やかに、伸びやかに、緑の葉っぱをキラキラ広げて……チビ樹に花を咲かせましょう〜です!
 

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