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宿題と怨嗟

 苦しい!!!
 いま今年で2.3位を争う勢いの苦しみに責め立てられている! 具体的には胃痛と頭痛、それに伴う眠気と眩暈でしょうか。胃が痛いと「自分がいま弱っている」事実と向き合うことになり余計につらい。身体の中心が不自然だと「早く休んだほうがいい体調」であると理解し易い。ジム通いのおかげですね。
 じゃあ休めよという話ですが、諸々の締め切りが圧迫してそれができない。そのうえで「宿題」がある。宿題がなければ問題がなかったのですが、これがひとつあるだけで巨大な岩のように心の器につっかえ、他の小石たちを拾えない。
 新作のシナリオとか、また小説を書くとか、次点でニディガ関連の企画・監修はよくて、それは自作かつ自分のやりたいことだからいい。それもタイミングによってはキツい時も多々ありますが、宿題に比べるとマシだ。宿題とは、特に自分の個性も必要なく、先生以外に評価されない淡々とした提出物を指します。そのような仕事が一つ待ち構えており一切の食指が伸びなくて困っている。苦しんでいる。なんで新作なり別企画なり、苦しみつつもやり甲斐のある(大人はこれを利用してやり甲斐搾取をしてくることもあるが)ものに手を伸ばせるのに、個性と報酬を殺して宿題を行われければならないのか。僕はマリリン・マンソンの影響で、気が狂うほど学校が嫌いなのに!
 本当に間違えた。1.2月のあまりの多忙さゆえに判断能力が著しく落ち、適当に返事してしまった。やりたくない……許して欲しい……けれども、ここで無視した場合、ただただ大人からの自分の評価が落ちること含めて宿題なのですね。学校でも宿題をしなかった怠慢への罰は、教師からの説教でしょう。学校なら「義務」だから納得できることもある。しかし、今明らかに他のことやったほうが楽しい・周囲も助かる状況において、地味な宿題に時間を奪われ、そのせいで数日動けない状況に胃と精神がズキズキとやられている。助けて……。
 ここまで気分が悪いときちんとした文章を組み立てられない……早く終わらせて解決したいのに、その焦燥感含めて脳みそが揺れて一向にどうにもならない。
 じゃあ裏で進めている新作のシナリオはどうなんだって話になるかもしれませんが、そこに関しては違うんだな。アレは追い込まれれば追い込まれるほど、「個性を発揮してもいい」から奇跡の発生率が高まる。締め切りによる緊張でリミッターが外れ、常識外の展開がスラスラと生まれる。自分の作品で自分の責任なのだから、全ての恨みつらみはパワーに変換できるのです。手前味噌だけど、今回は凄いよ。本当に凄い。いや、今回もか。ニディガもだいぶコンプレックスや社会への憎悪を膨らませた風船であった。しかし、今回はニディガを踏まえたうえでの更なる怨嗟であるからシンプルに全てがパワーアップしており、唯一無二の迫力がある。
 まあ、そちらはもう少しで完成するのでその際にでもそれとなく話せる範囲で。とにかく、僕は負の感情しか原動力にならない。間違っても「たくさんの人を笑顔にしてあげたいな♪」なんて気持ち一ミリも持っていない。自分にしか向いてないよ。それが書き上がることで、僕がトラウマを乗り越えたり、精神的な成長をするかどうかでしかない。トラウマって他人に話したり、書き起こしたりしていくうちに慣れて薄れるんです。だから僕は胃がキリキリと痛むことも敢えて創作にも日記にも書く。自分自身が救われるには、症状を抑えるにはこれしかないので。
 言うなれば、この日記まで入れて、すべてが長い長いカルテみたいなものだ。他人のカルテなんて覗き見したら絶対面白いでしょう。Win-Win。僕は多くの人間にトラウマを弄られて嘲笑われるたびに慣れ、他者はパッケージされている分、安心して他人をショーとして楽しめる。人生の多くの時間をかけた壮大な治療。けれどもこの世は地獄なので、ショーの規模が広がるほどに新たな傷ができる。今までとは想像もつかない怪我を負う。怪我を文章に昇華できるまで耐え切った先で新たな作品が誕生する。永久機関の完成です。
 だから、自分の傷を抉って許される場所ならいいんだ。この1.2年でついた大きな傷は傍目から見て刺激的なエンタメとなったでしょう。だから自信があるんです。自分の傷の深さは自身が最も知っているのでね。僕の苦しみがそう安く浅いものでないことが作品を通して分かる。絵や音楽を加えて優れた他者が肉付けしてくれる。こんなに幸せなことはない。
 けれども宿題は違う。宿題に求められているのは個性でなく「提出」です。自由研究ならともかく、問題集への回答にクオリティなんて求められてないでしょう。算数の宿題に対して、前代未聞のエキセントリックな答えを書いたとて誰が評価するのか。今はそのタイミングでとんでもなく胃が痛い。コンビニ夜勤に行く直前みたい。出勤したらもうやるしかないので死んだ魚の目をしつつも身体が動くのだけれど。
 20代半ばでの行動原理は、抽象化するなら「二度とコンビニ夜勤で店長にこき使われないように」という覚悟と飢えと怨恨で構成されていた。このようなアルバイトの苦しみ、資本主義と社会への反抗心に改めて襲われたことは無理やりポジティブに解釈するなら幸運か。長らく忘れていた人生のままならない窮屈さ。
 復讐だ! 大丈夫、死ぬまで忘れはしない。見下され続けたコンビニバイトの日々を、労働を、嘲笑われ続けたアニメアイコンでの葛藤を、なんだかんだ就職ができる他者への嫉妬を。自分の矮小で狭量な精神に嬉しくなる。もし、すべてを許す仏の心を持ってしまったら、もう日記も創作も手につかないのだから。僕はまだまだ世界の秩序と善悪の基準を憎み、混沌を望むことができる。
 

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