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イース様と賽の河原

 『フレッシュプリキュア!』は、長いプリキュアの歴史の中でもターニングポイントだ。等身が上がって大人びたデザインに挑戦したことも特筆すべき点ですが、なにより語るべきは初めて女敵幹部が改心してプリキュアとなる……通称「光堕ち」が行われたのです。


 ふたご先生の漫画版イース。とんでもない美人。当然アニメ版でも大人気であったのは言うまでもなく、彼女が悪と正義に揺れ動きながらもプリキュアと一対一で殴り合うエピソードは、作画も演出も頭ひとつ抜けた伝説の回。身も心もすべて曝けだし、本気で拳をぶつけたからこそ起きた奇跡。たとえ当初は「悪」であったとしても、友情や優しさを通してプリキュアになれる。イースを皮切りに敵幹部の「光堕ちキュア化」は定番となりました。

 この話を語るだけであればアニメ版の話をすればいい。なぜ、敢えてふたご先生版のイースを例に挙げたかですが、なんと漫画版のせつな(人間時の名前)は、プリキュアとして悪と戦っていくだけでは罪の意識が拭えず……


 誰にも気づかれず早朝にひたすら石を運ぶことで、過去に自らが傷つけてきた自然に奉仕しているのです。生前の罪に与えられた「賽の河原」そのもの。この一ページがあるだけで、せつなのキャラクター性がぐっと深まる。彼女はプリキュアや視聴者の赦しと関係なく、ただただ己が背負った罪悪感とひとり向き合っている。
 そう、賽の河原なんです。三途の川の河原でひたすらに石を積む。一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため。とにかく石を積み上げることでいつか救済される時を待つ。河原で石を積むことに何の意味もない。けれども、そうすることでしか救われる方法が分からない。


 急に自分の話になりますが、こうして僕が毎日日記を投稿しているのも、積み上げた石だ。最初はゲーム発売前に忘れられない繋ぎとして、無能なりに文章を書くコツを掴むための練習として始めたが、今や日記を書くために1.2時間の睡眠時間を削るくらいなら休んだ方が効率が良い。それか読書や仕事を進めてもいい。なんなら4年もやってきたんだから少しは休んでも文句言われないでしょう。そもそも誰に強制されてもいない。
 が、やはりこうして今日も一つ石を積んでいる。テキストサイトの灯火を消さない使命感もある。オタクとして好きな作品の話を書かねばならない義務感もある。しかし、最も大きな原動力となっているのはインターネットで生きた原罪をわずかでも軽くする贖罪の心だ。
 僕はあまりにめちゃくちゃであった。一般的な善悪の基準で言えば間違いなく悪であり、それでも悪役なりの矜持を崩すつもりはない。ですが、そもそもネットのジメっとした陰湿な空間から飛び出した抜け忍の時点で、やはり罪人は罪人。客観的な視点で見た僕は「成功した」側であり、過去の何もなかった僕はそのような人たちを心底羨んだ。が、憧れは止まらず自分がその立ち位置となっているし、今後も活動は続けるだろう。そのたび過去の自分に責められても文句は言えない。
 ならばせめて、テキスト文化に育てられた感情とオタクとしての生き様を書き連ね、まるで内臓を曝け出すかのように感情も出来事もそのまま文章にし、日々睡眠時間を削ってでも痴態を他者に見せていこう。どんなに無意味でも石を積もう。それがせめてもの贖罪である。罰に意味があってはいけないのだから、無意味を積んでいく。
 だからなんだ、こんなことで許してやるものか。結局、日記すらも読者がついて自分のためになっているだろう。そもそもお前に才能も実力もない。あらゆる批判は想定内である。過去の自分もそう思うでしょうからね。でも石を積み、己を晒し、それが罪滅ぼしと感じてもしまっているのだから継続する他ない。じゃあ、再び百万寄付すれば善行なのか? そんな単純では無いでしょう。好きにやらせてもらう。すべては自己満足なのだから。
 この行為と文章が善か偽善かなぞどうてよく、はたまた投稿すら罪を重ねていると石を壊しにくる鬼が来ても仕方がない。他者の倫理によるジャッジに毛ほども興味がなく、僕の善悪も倫理観もアナタが勝手に決めつけて構いません。どうぞご自由に無意味な石の塔をご鑑賞ください。

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