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抽象表現に生きる人間

 先日の日記で「抽象画的な人はわかる」と書いたことで、絵師の人から詳しく聞いてみたいと質問してもらえたので僕の見解を好き勝手に書きましょう。

 まず、発端として超てんちゃんの新曲『きゅびびびびびずむ』を作詞し、テーマ(キュビズム)の理由が今回作曲を担当した原口沙輔さんの考え方が抽象的に感じられたと書いたことです。音を好きに切って貼る音楽性、言葉に音を乗せる『人マニア』の詞を読んでの感覚です。


 世界を抽象的に捉える。
 社会ではとうぜん抽象的な表現よりも具体的な理屈やエビデンスを求められる。「今回の企画は青。のちに黄色く染まりますね」と、ふわふわしたことしか喋らん奴がいたら即刻クビでしょう。ただ、当人には本当に担当プロジェクトや青や黄色など色彩で見えているかもしれない。
 共感覚が発揮され易い場面は、やはり社会でなく芸術にある。絵ならば抽象画、幾何学模様、言語ならば音楽や詩で表現する必要がある。だから僕は作詞をしている。輪郭をぼかした日記や作品を投稿することもあります。
 モンドリアンの絵を見てみよう。

 左下のコンポジションは代表作。あなたも街でコンポジション的なものを目にしたことはあるでしょう。けれども、何が凄いかまでを一目で理解するのは簡単ではない。僕も、コンポジションにとても惹かれるのにその理由がわからないもどかしさからモンドリアンを探してオランダまで飛んだのです。
 真ん中のブロードウェイ・ブギウギならどうでしょう。これは直感的にも楽しみやすい。人で賑わうニューヨークの区画、ブロードウェイにモンドリアンの愛したジャズが融合され、極めて簡素に描かれている。街の賑やかさを俯瞰し、線やブロックに閉じ込めているような感覚が聞こえてくる。コンポジションの先にたどり着いたモンドリアンの究極に感じられる。
 そんなブロードウェイ・ブギウギに感銘を受け、坂本龍一はそのまま『Broadway Boogie Woogie』なる曲を作っている。抽象的な絵画に抽象的な音楽が重ねられていく。そして僕はこの二人が大好きなので堪らない。『ブレードランナー』の台詞を大胆にサンプリングしているから中々使いづらい立ち位置なのもいいよね。


 ピカソの場合は、このような写実にとらわれない表現を人間にも適用した。伝えたいパーツを強調することでデッサン画を越え、目や口の位置や色、なんなら顔面自体が原型ないほど歪んでいたりもする。これがキュビズムにあたる。
 正確さを捨て、表現すべき要素を誇張して描き出す。モンドリアンの場合は線や色を最小限とすることで「誇張」している。色で伝えられるのだからあとは線を引く。彼はキャンバスにそのまま色テープをビシッと直線に引いて作品とすることもあった。詩に近いんじゃないか。詩は自身の見た景色と感情を短い言葉に詰めて音(音楽のみならず、声に出した時の語感)に載せる行為だ。モンドリアンの絵には一見無機質ながら多大な詩情を感じられる。本人がコンポジションに行き着く前は風景画を主としていたからでしょうか。
 ゴダールの映画なんか、思いっきりモンドリアンを映像化しようと試みている。映像の形で抽象表現を極めると、みるみる理解し難いものができる。絵を追ったおかげで、僕は彼の芸術性の一旦に惚れてしまっている。『中国女』でのワンシーンなんか丸わかりで首がもげるほど頷く。



 前も書いたが、ゴダールの映画で政治性や難解さしか話さず、色と詩の話をしないシネフィル気取りの話はすべて無視していい。ただ、そこは各個人の物の見え方の話であり、物語を追うことと芸術を見ることには差異があって、あまりに前者寄りの感覚の方かもしれないが。他人の感覚や感情へ理屈をつけられるのは編集者に向いている。
 ここまで書き殴った駄文と『きゅびびびびずむ』へ大いに引っかかってくれた方の発見になれば幸いです。物語はスパイスや指標の役に立ち、真実と物語を彩るために色と詩がある。

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