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エッセイ:なんのために生きるのか

 「なんのために生まれて なにをして生きるのか こたえられないなんてそんなのはいやだ!」とは、ご存知アンパンマンの歌詞ですね。僕が敬愛する作家、瀬戸口廉也先生が何度も何度も引用していたフレーズです。あのグリフィスだって似たようなこと言っている。
 何度か僕は自身の死生観を書いてきました。ざっくりまとめると、仏教系無宗派といった考え方で、悟りと善については意識しながらよりよい死を迎えていきたいと願っている。もちろん、その境地に達するには僕はまだ幼すぎる。
 「死」については考えてきたなら、「生」についても考えるべきだ。というか順番が逆だな。生の方から先に辿っていく方が正しい気もする。でも、遠回りだっていいさ。むしろ遠回りしたからこそ良い。死に対しての自論を持った状態で「生」と向き合えるのだから、無駄なことなんて何一つない。そういうものです。
 まず、僕の根本的な行動原理は「知識欲」と「承認欲求」の2つに大別できる。18歳までは特に前者で動いていた。母親も友達もいて、僕の好きな本やアニメの話を聞いてくれるし一緒にゲームも遊び、承認は満たされていました。代わりに人一倍知識……サブカルに飢えていた。単純に童心から成長していなかっただけでしょうね。叱ってきたり指標にすべき父親は生まれつき不在で、好きなだけアニメやゲーム、本を貪る生活、そこにパソコンも加わり、沖縄というオタク文化不毛の地ゆえの「飢餓」も相まって、とにかく何でも観たし、読んだ。教科書なんて数回しか開いていない。僕の偏差値は40未満でしたがどうでもいい。学校からの評価に一ミリも興味はない。
 得た知識を活かして友人に漫画やゲームを紹介することが快楽でした。自閉症のコミュニケーション。僕はそうして知識を押し付けることでしか他人と接することができない。『香菜、頭をよくしてあげよう』と同じ。泣ける本やカルトな映画を共有することでしか愛情も友情も示せない、内的な人間。その上、ニチアサの特撮や女児アニメ、ロボットアニメが大好きな、本質的に子供のままのカスである。サブカルチャーのフィルターを通してようやく人間のフリができるだけの。
 けれども、母親の再婚を機に沖縄を離れ、家族も友人もいない冷たい東京で独りになってからは「承認」への欲が強くなった。ただの無職の貧乏未成年なんて誰も見向きもしないし、バイトもつねに失敗し続けて自己肯定感もドン底でしたから。誰かに自分を発見してもらいたくて文章を投稿するようになった。子供の頃の僕が大好きだったテキストサイトを意識したものを。
 わけわからん背景に浮かぶオタク臭い文字列。決して教科書のような正しさも、小説のような大きな物語もない。ただのネットの一オタクたちによる等身大な日常やマイナーな作品の紹介。その怪しい魅力を最もカッコいいものと認識してきたので、当然のように自分もそのような文章を書いたのですね。それこそ、黒地のメモ帳に毎日胡乱な文章を投稿する行為もその名残。
 この反響が大きく、好きなアニメや本、美少女ゲームの話を書くたび、おっさんたちが褒めて仕事をくれたし、歳下の人たちは勉強になると読者として応援してくれた。つまり、承認されたのです。その延長でニディガというゲームを作ってみた。自分としては、あの作品はテキストサイトのアングラとサブカルチャーがドロドロに入り混じった世界観を表現したつもりですが、嬉しいことにその枠を超えて世界中から愛される結果となりました。おかげで、今では何十万の人たちが僕を見て、文章や作品を楽しんでくれる。なんと幸福なことだろう。
 さらに幸運だったのは、僕の重度の自閉症が、そこで視点が外へ向いて改善されたり満たされたりすることは無かったことです。現に、僕はこうして今でも睡眠時間を削って文章を書くし、毎月気に入った本や音楽を紹介する記事を投稿することも日々の喜びとして大きい。つまりは、知識欲の部分が全然無くならない。むしろ、ゲーム製作を経て新たな視点で本や作品を嗜むことが楽しくて仕方ないし、それを文章や創作に取り入れてみんなに押し付ける行為もまた気持ちがいい。僕の根本的な快楽原則は子供の頃から一切変わっちゃいない。図鑑で覚えたカッコいいウルトラ怪獣の名前をお母さんに教えて褒められた喜びを、学校の友達にクトゥルフ神話について解説した昂りを、30が見えても引き摺り続けているのですね。もちろん規模や相手はどんどん大きくなっているけれど。
 良かった。僕がもっと軽度の自閉症だったなら、ここで一般的なコミュニケーションの良さに目覚め、サブカルチャーよりメインの人生に目を向けていたかもしれない。けれども、最近の僕といったら、インディーの傑作一人用カードゲームを遊び、ゴダールの映画を順番に視聴するような日々である。その経験もきっと自分の中で咀嚼しきったらなんらかの形で書いて昇華するだろう。そのために生きている。
 知識と承認、それを最も効率よく満たすために文章と創作を利用する。故やなせたかしに「なんのためにうまれて なにをして生きるのか」と問われたら、こう答えるでしょう。「興味のある本や映画・アニメにゲームを浴びるほど堪能し、その魅力をたくさんの読者に押し付けるために生きている」と。
 死に対しては曖昧だ。ただ、生に関しては理由がはっきりしている。そこに悟りと善への探求が加わり、この欲求を満たすために活動の規模と範囲を拡げなければならない悩みもつきまとうが、それもまた良しだ。たくさんの遠回りをしながら生きていく。趣味と風流がすべての傾奇者にはその生き方が許されるのですから。あとは死ぬまで、いや死んだ後に仏様を目の前にしたとて傾き続けられるかどうかの勝負です。
 


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