ガラージュ 芸術 対話
90年代の奇ゲー『ガラージュ』が、お手頃価格でSteamやSwitchで遊べるので、ぼちぼち奇妙な世界を堪能している。
触ってみると、電波でも名作でもなく「奇ゲー」と呼ばれる理由がよくわかる。この触感はたしかに奇書の感覚。
ガラージュの内容はともかく(というか不気味ながら妙な安心感のある世界を歩くゲームとしか言いようがない)、プレイしていて面白かったシーンを誰も見てないYouTubeにアップしたところ、情熱的なコメントがついてビックリしたぜ。
熱いぜ。
YouTubeのコメント欄は、SNSともちがった味があっていいね!
スクショをべたっと貼ったせいでフォントサイズが小さくなったので意訳。
「ガラージュはとても芸術的な精神治療装置だ。体感する芸術作品をにゃるらさんがプレイしていて嬉しい。ニディガも芸術作品としてのゲームを感じており、クリエイターの自分もその方向性を応援しています」、だいたいそんな感じ。
ニディガを「プレイヤーとの対話」と認識しており、自分としても芸術性と対話は意識し続けてきたことなので嬉しいね。まさかこんな適当に投稿しているYouTubeで、しかも2年経ったいま、ガラージュを通して(作家側の意図を汲み取られたという意味で)的確なニディガ評が投げられるとは思わなかった。喜びです。
僕の中で芸術・美術の意義は、「感性そのもの」であり、芸術作品・アートとは「感性の押し付け」と解釈しています。真に自分と感性が一致する人間なんて世界の1%にも満たず、押し付けた芸術性にはフィーリングが合わずとも何かを感じさせる力が必要となる。
いわゆる奇書、奇ゲーは、押し付けた上で突破する気が、エンタメ性が極めて薄いところに奇妙さと魅力があります。たとえばガラージュなんか、この世界観やグラフィック、頓珍漢でゆるい独特のテキストがどんなに刺さろうとも、プレイ感自体は非常に悪い。ゲームとしてのテンポや操作感、わかりやすさは無い。感性を押し付けられた上で、せめて他部分を柔らかく噛み砕いておく作業が成されていない。
ゲーム版lainも同様で、初代PSで遊ぶとテンポの悪さに耐えきれず、せめてもの抵抗でPSが遊べるPS3に切り替え、ようやく若干遊べるくらいになった。それでもゲームとしては最悪で、製作陣もゲーム性に関して放棄したことを何度も語っている。自分はシナリオをすべて手打ちで写経した。苦行。
そんな難を乗り越えてまでも、そこにしか存在しない何かを追いかけてしまうほどに刺さった人たちが居るわけで、たとえばコメントの方はガラージュが好きで好きで堪らなくなったわけですね。ガラージュに惹かれた同志が、それも好きなゲームを作っていた作家でもあることに感激し、返事の可能性なんて皆無に等しいコメント欄へ長文を投げかけた!
ニディガもゲームとして本来許されない、意図的に面倒くさい要素がてんこ盛りです。そこに対話と芸術性があると好意的に見てもらえればそう。悪く言えば独りよがりで押し付け。とはいえ、総じてプレイ感覚としては(プログラマーの奮闘のおかげで)現代的な快適さを有していたので多くに広まったのですが。遊び易いことに罪はないからね。
感性の押し付けを排し、誰もが快適になればなるほどポップでメジャーになる。僕は作品にポップは含まれるべきで、それは最低限子供向けラインのあるニチアサ的な感覚でしょうね。このような微妙な機微を合わせ、芸術性・感性の一致なんて滅多にない!
対話をする。話していくうちに少しずつ及第点と妥協点が見えてくる。あらゆる面倒臭さを「対話」に引き摺り込んで体験させる。誰にも共有できない美の世界において重要なこと。