芦原妃名子先生のことについて

この一週間は、芦原先生の件が心にずっとのしかかっていて、普通に生活しているのだけど、それでもふとした瞬間に心がぐしゅっと潰されそうだった。それはもう、自分が芦原先生のファンだったからだ。読者だったからだ。それになにより、私は芦原先生のことを信頼していた。ずっと。好きな作家のなかでも、信頼できる作家というのは一握りだ。だからこそ、とても悲しい。『セクシー田中さん』は本当にずっと素晴らしい漫画で、こんなふうに世間に広まるべきではなかったのに、という気持ちもある(それは読者の傲慢だとも思う)。でも私にとって何も言わずに通り過ぎることはやっぱり難しいから、少し思うことを書いてみたい。

私は普段、作品を評する側でもあり、作品を世に出す側でもある。評論の本なんて自分がいちからつくった創作物ではないだろうと言う人もいるかもしれないが、私にとって書いたものを世に出すことは(それが何かに依った解釈であったとしても)まぎれもなく創作のひとつであり、私にとってはたとえば小説を書くことより小説について語ることのほうが表現としてしっくり来ているからこういう形を取っている。そして本を出すたび「1冊本を出すことは、本当に本当に労力のかかることだなあ」とびっくりしている。10冊出してもいまだにびっくりする。本を出すのって、労力がこんなにかかったっけ、と新鮮に「ゲッ」と思う。

だからこそ、作品を発表する人にとって、この世でもっとも傷つくのは自分がつくったものを不当に侮蔑されることである。と私は思っている。

侮蔑というと分かりづらいかもしれないが、ようは「侮られること」である。

批判されるよりも、価値を侮られることのほうが、ずっとずっと傷つく。――この感覚は、私は自分で本を出してみないと分からなかった。本を出すまでは、批判されるとしんどいだろうな、という想像しか至らなかった。しかし本を出してみて分かった。批判は、もちろん嫌だけど、それでもまだマシだ。作品に穴があるのは仕方がない。だから穴を指摘されても、「そうだろうな」あるいは「そんなことはない」と思える。しかしもっと傷つくのは、作品の価値そのものを、軽く見なされる――侮られることである。

侮られること、ということのパターンはいろいろある。たとえば盗作されることもそのうちのひとつだろう。盗作されるということは、創作者のオリジナリティを侮られているということである。傷つく。あるいはそもそもジャンルそのものの価値を貶められることもそうだろう。

あるいは、私は経験したことはないが、自分の名で発表したものを使って別の作品を発表するときに「どう考えても作品の核になる部分を削除されたり変更されたりする」こともまた――それは作品の核となる価値を、侮られているということだ。「そんなもんなくてもいいだろう」と言われている、ということだから。

メディアミックスという二次創作をおこなう時、やはり作品の核となる部分を削除されることは、その作品の価値そのものを軽く見られていることでもあると私は思う。それは傷つく。深く、ざっくりと、斬られた気分になるだろう。想像するだけで痛い。

そして何よりも傷つくのが、「ものづくりをやっている(広い意味での)同業者」にそれをされることの痛み、である。私自身も、何も知らない人に侮られることよりも、同じようにものを作っている人に侮られるほうが、ずっと痛い、と感じたことはある。なぜなら同じようにものを作っている人は、おそらく作品を侮られる痛みを知っているからだ。自分の作品の核が軽く見られたときの痛みを知っていて、それでもこの人は、軽く見ていいと思っているんだと知った時――それはとても「痛い」傷になるだろう。

これはすべて私の想像だ。何かを世に発表することの価値を、他者にどう扱われると傷つくか、という問題について、私が想像した話に過ぎない。だから今回の出来事についてどれほどの正しさを持つのか、わからない。しかし少なくとも私は、一読者として、『セクシー田中さん』最新刊のコメント(ドラマの2話分の脚本を担当することなどについて説明されていた)を読んで「痛かっただろうな」と勝手に思った。そして、「なんて信頼できる作家さんなんだろう」とも思った。だって原作ファンが傷つかないように、あらかじめ「こういうふうに私はドラマ化にかかわり納得していますので、信頼してくださいね」と語ってくれているのだ。

小説や漫画が実写化されるとき、既にいる原作ファンの多くは、傷つく。よしながふみ先生と羽海野チカ先生の対談で「メディアミックスにファンは傷つく」という話をされていたが、その通りだと思う。自分の大切なものが、改変されて世に出される時、多くの原作ファンは「これじゃない」と思うことのほうが多い。しかしそれでも制作サイドはそんな原作ファンには付き合ってられないだろう。それも読者はわかっている。だから作品が世に広がることを、せめて、喜ぶ。――しかし芦原先生は、そんな原作ファンに「私は納得していますよ」とあらかじめ伝えてくれたのだ。不安に思うだろう読者に対して。誠実すぎる。こんなに信頼できる作家さんはいない。しかし、私はあのとき「信頼できる」と思ったことをやっぱり後悔している。そこまで責任を芦原先生が取ろうとしていたということは、つまり、芦原先生の肩に乗っかかるものは、それだけ大きかったのだろう。

『セクシー田中さん』はドラマ化直前のタイミングで最新刊も刊行されていた。単行本作業もあっただろう。いろんなチェックもあっただろう。漫画も描いていただろう。それに加えて、ドラマの脚本まで担当していたのだ。

修正作業というものは、世間が思うより疲弊する、と私は思う(これも私の体験でしかないから、他の人がどう思っているかは分からないが)。直すだけ、といいつつ、直すことのほうがずっと時間がかかる場合もたくさんある。しかも他人の書き上げたものを直すのは、気も引けるし、しかし直さなきゃいけない点はあるしで、とてもとても疲れる作業だ。そんな作業が重なれば、過労になるに決まっている。

そうでなくとも、芦原先生は長い間『Bread & Butter』と『セクシー田中さん』を同時並行で連載されていて、「どんな仕事量なんだ」と私はのけぞっていたから。過労だったのではないかと思う。いや、そもそも現代の漫画家さんはみんな過労気味だ。そんなタイミングで、自分でSNSであのようなコメントを発表して、心に来ないわけがない。

もちろん出版社も、社としてコメントを出すのはいろんな事情があって難しかったのだろう。だから個人でコメントを出すことになったのだろう。しかしそれでも私は、作家個人の名前でコメントを出させないでほしかった。芦原先生の肩にそんなものまで、乗っけないでほしかった。それが本当に悲しい。仕方のなかったことかもしれないけど、止めようがなかったのかもしれないけれど、それでも、悲しい。

これは私の体感に過ぎないが、今の作家業は、どう考えても「作品をつくる」以外の仕事量が多すぎる。SNSの運用、インタビュー対応、いろんなチェックや修正。今回の件でさまざまな問題が明らかになるだろうが、私は、「SNS運用を本当に作家に任せるべきなのか、出版社がもっと発信できるようになるべきではないのか」という点と、「修正作業の労働量が軽く見積もられすぎではないのか、(メディアミックスの脚本に限らず)一度つくったり、他人がつくったりしたものを修正するときの労力に対価は必要ないのか」という点に関しては、もっと議論されてほしいと思う。

kindleをひらくたび、『セクシー田中さん』の表紙が見える。私は芦原先生の才能と作家性に心底救われていた。それは『セクシー田中さん』だけではない。すべての作品に、支えられていた。

いまは芦原先生の魂が安らかであることを祈っている。

そして個人でなにかを発表しているすべての人が、もっともっと搾取されずに健やかに生きられることを、心から願っている。



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