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『セクシー田中さん』とは何の物語だったのか?ー実写ドラマが軽視したもの

『セクシー田中さん』についての報告書が先日公開された。それについて色々と思うことがあったので、ちょっと今日は『セクシー田中さん』という作品そのものについて書いてみたい。


1.『セクシー田中さん』とはどういう物語なのか

私が報告書を読んでもっともショックだったのは、薄々そんな気はしていたのだが、たぶんあの場にいた関係者のなかで、芦原先生以外誰ひとり「『セクシー田中さん』とはどういう物語なのか」ということを言語化していなさそうなことであった。

そもそも『セクシー田中さん』とは、どういう物語なのか。

主人公の派遣社員として働く朱里は、会社の地味で「AI」などと呼ばれる謎の正社員である田中さんが、実は私生活ではベリーダンスの名手であるという秘密を知る。朱里は田中さんと交流するうちに、自分の恋愛や仕事の価値観を見つめ直していく。

ーーというあらすじなのだが、このプロットを平凡な作家が書いたら、単純な、「歳の離れた女性同士の友情物語」として描くことになるだろう。朱里と田中さんが交流するなかで、お互いの価値観を知り、お互いの足りないものを埋め合う、みたいな。そして永遠に仲良く二人は暮らす、なんてラストもあり得るかもしれない。

しかし芦原妃名子先生は明らかにそのように描こうとしていなかった。私も連載を読み進めるうちに気づいたことではあるのだが、どう考えても『セクシー田中さん』は、女性同士の友情が主題ではないのだ。なぜそれがわかるのか? 『セクシー田中さん』のなかで、「田中さん」は、明らかに朱里にとって、「卒業する相手」として描かれているからである。

たとえば作中、「朱里は田中さんに依存してないか?」という問いが描かれている。

「田中さんがキラキラしてないと不安になるんでしょ?
それも依存じゃね?
自分のメンタル他人に委ねてんじゃん」

(『セクシー田中さん』3巻、芦原妃名子)


家庭環境によって他人の意向を先回りして空気を読みやすぐ育ってしまった朱里が変化するために、田中さんは、ある意味「朱里が出会って、そして離れる」ことが必要なキャラクターである。

……まわりくどい言い方をしてしまった。つまり『セクシー田中さん』において、朱里にとって、田中さんとは、“母”の比喩だったのだ、と私は思っている。

朱里は自分の家庭で抑圧的な娘に育ってしまった。だからこそ田中さんという新しい母に出会い直し、実の母の呪縛(=他人先回りして空気を読んでしまい、自分の欲望を抑圧してしまう)を解き、そしてラストでは、田中さんという新しい母からも自立する。ーー『セクシー田中さん』とは、朱里サイドから見ると、そういう話だったのである。

だからこそ、朱里は自分の欲望ではなく実の母からの抑圧によって進学先を決めなくてはいけなかったし、絶対に田中さんとは違う道(ベリーダンスではなくメイクの道)を見つけるラストを手に入れなくてはいけなかった。それは、そういう物語だったからなのだ。

『セクシー田中さん』とは、比喩的に描かれた、母からの娘の自立の物語だったのである。


2.それは「こだわり」ではなく「物語」そのものである

ちなみに、芦原先生は本当にずっとずっと「母の規範から娘が脱出する物語」を描き続けてきた。『砂時計』は自殺した母の呪いを娘が解くまでの物語でし、『Piece』は母のコントロール下から娘が出るための欲望を見つけるまでの物語だし、『Bread&Butter』は母や父がつくってたような家庭像「ではない」家庭をどう娘息子がつくるかという物語である。

というわけで、あきらかに『セクシー田中さん』は、比喩的な母娘の話として描かれている。それは芦原先生がずっと追いかけているテーマでありつつ、それでいてそこにフェミニズムのエッセンスや現代の貧困の問題を入り込ませている、本当に素晴らしい傑作だと私は思う。

ーーが、そのことを、誰も説明していなかった。あの報告書では。それが、私はとてもとても苦しく悔しく悲しかった。私の大好きな物語が、そのような扱いを受け、私の大好きな作家が、そのような扱いをなぜ受けなくてはいけなかったのだろう、と心底思う。

どう考えても、朱里の進学理由を「朱里自身の欲望(制服が可愛い)」に変更することや、ラストを「田中さんと同じようにベリーダンスを楽しみ続けること」に変更することは、物語そのものを、違うものにしている。それは、細かなこだわりではない。物語そのものなのである。

なぜそれをドラマ化サイドの誰も説明していないのか、出版社サイドの誰も説明していないのか、なぜそれを芦原先生自身に説明させたのか、本当に私には、わからない。

読めばわかるじゃん、としか言えない。読んでよ、ちゃんと読んでくれよ、この素晴らしい作品を、とファンとしては心から叫びたくなってしまう。


3.「実写化」の専門家=メディアミックスコーディネーターが必要ではないか? 

ここからはドラマ化に関して何の知見もない外野の、いち芦原作品ファンの意見でしかない。しかし報告書を読んでしみじみ思ったのが、たとえばR指定が入るようなシーンの専門家である「インティマシーコーディネーター」が存在するように、実写化に際しても、物語の変えられない部分と変えていい部分を折衷するような「メディアミックスコーディネーター」が専門家として存在するべきではないのだろうか。もちろん、これ以上関係者が増えることがいいことなのかどうか分からないけれど……。でも演出家や脚本家がテレビ局的な論理をかなり持っているのなら、物語そのものに寄り添うような人がいるべきなんじゃないのか、と思ってしまうのだ。そしてそれを出版社の社員さんが担うにしては、負担が大きいのかもしれない。わからないけれど。

それくらい、現状のメディアミックスは物語そのものを軽視しすぎているのではないか、もっと物語を読むことを重視してもいいのではないか、と私は報告書を読んで心底感じてしまった。

『セクシー田中さん』の実写ドラマ、というものがもっとも軽視してしまったのは、「物語」そのものではないのだろうか。だからこそ、こんなことになってしまったのではないか。

もっと物語を、読むことを、重視してほしい。それが、実写化するときの最重要事項ではないのだろうか。

ーー『セクシー田中さん』という作品が起こした事件が、どうか丁寧に再検討され、有効な再発防止策を生むことを私は心から願っている。


有料部分は報告書を読んで他に思うことです……。

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