批評誌『羅(うすもの)』発行によせて―「京都の書き手・西川祐子になぜ私が興味を持ったのか」というエッセイ

大垣書店さんが中心となって発行された無料の批評誌『羅(うすもの)』に寄稿した。美しい装幀になっていて、大垣書店で無料配布されているようなので、大垣書店が近くにある方はぜひ読んでみてほしい!


で、ここに書いたのが西川祐子という人の文体についての論考なのだが、なんでこんなテーマを書くに至ったか、ちょっと説明が足りていないので(原稿の中でもう少し説明すればよかったなーと私自身反省している)、この記事で西川祐子さんについて書いてみたい。

そもそも西川祐子という人が誰かというと、京都に住んでいる研究者だ。戦後のまだ女性研究者が少なかった時代に、フランス文学の研究でフランスへ留学したり、自らの雇用をめぐって裁判を起こしたり、その一方でさまざまな分野の研究書を刊行していたりと、間違いなく戦後の知の巨人のひとりである女性だ。詳しい経歴はこのサイトの説明が一番分かりやすいはず。

私自身、西川さんのことを知ったのは上野さんや荻野さんとの対談集『フェミニズムの時代を生きて』だった。「日本におけるフェミニズム運動のパイオニア世代の三人が、個人史の軌跡を時代の中に位置づけて語る」と版元の説明にある通り、中身はこの国のフェミニズム運動の夜明けの熱気や、自らのセクシャリティや身体についての緊張感を持った語りがかなり面白い本なので、興味を持った方はこの本もぜひ読んでみてほしい。

で、この西川さんの研究分野というものが、かなり面白いのだ。

たとえば「女性の日記」。日記自体についての研究もなさっているし、

あるいは彼女が評伝を書いた女性は、ほとんど日記を仔細に着けていることが特徴的なのだ。『森の家の巫女 高群逸枝』、『花の妹 岸田俊子伝』、そして『私語り樋口一葉』。

それから「京都の記録」。これは昨年読んだなかでもかなり上位に入る面白さの本だったのだが、『古都の占領』というのは、京都の「忘れられた」占領期を浮き彫りにする研究なのだった。

そして「家族の歴史」。単に家父長制の構造を解き明かすというよりも、そこにある物語、つまりは歴史を紐解いているのが特徴的なのだ。


「女性の日記」「京都の記録」「家族の歴史」――それはつまり、どれも、時系列に並んでいて、それでいてその時系列に並べることではじめて浮き彫りになる何かを解き明かすものなのだった。

つまり西川祐子という人がしようとしているのは、常に、上から見て一発でわかる図を描くことではなく、線上に見て時系列の変化から見えてくる隠されたものを炙り出す行為なのだ。

そしてこの西川祐子的研究世界観と対比して、「上から見て一発でわかる図」というのは、私は一種の近代的な社会学の形そのものであるように感じてしまうのだ(あくまで私の雑な感覚なので、そうじゃないと言われそうだが)。フーコーが図を書いて、これがパノプティコンの構造なんじゃ、と一発で皆を黙らせるアレです。私の社会学レベルが学部生以下なのが分かるだろうが……。

もちろん社会学にはインタビューを細やかにおこなって図をあえて描かずに保存することを大切にしている分野もある。が、一方で、やっぱり「上から見て一発でわかる図」というものが発揮する明快さ、というものはこの世にたしかにある。それこそ学部生の時にフーコーの話を聞いて「なるほど~!」と叫ぶような体験もそうだろうし、あるいは上野千鶴子の著作を読んで「なんてクリアな図像化なのか」と震えるような体験でもある。どちらも私個人の体験だが。

そして社会学といわず、現代の研究における論文の構造が、そもそも「上から見て一発でわかる図」であるべきだ、という思想もある。つまり、最初にアブストラクトがあって、結論を書いて、研究方法を書いて、そして最後に結論と展望を書く。その構造そのものが、そもそも「上から見て一発でわかる図」、つまり誰もが読めるような構造になっている。それは大多数の人に読んでもらうためのお作法のようなもので、重要な慣習だ。

しかし西川祐子の文体は、そこから外れている。それが面白いのだ。

彼女の興味――時系列で変化してゆく、その揺らぎの隙間にある隠れた何か――をあらわすには、たぶん論文の文体じゃ書けなかったのではないか、と思えてくる。そしてそれが何なのか、私は知りたい。

なぜなら私の興味と西川さんの興味はすごく被っているからだ。

単純な理由で恥ずかしい。でも、本当に著作を読んでいて「わかる、わかる」と何度も思った。日記、京都、家族、それらの記録による保存、そして時系列による変化。わかる、そこが面白いんだ、と。それは文学というものに近しいのかもしれない。文学もまた、時間を描ける芸術だから。

そしてそれらを表現する際に、なぜ論文の文体ではなかったのか。どうしてわざわざこういう文体を選んだのか。それが知りたかった。考えて観たかった。その結果が、今回の論考になっている。だからタイトルは「偶然の文体」なのだ。

そしてその在り方というのは、なんだか京都的でもあるなあ、とぼんやり感じている。恩田陸が京都のことを「重層的」とエッセイで表現していたが、まさにその感覚を私も持ち続けている。時と時が重なっている。だから地層がある。上から見てもわからない。だから歴史を掘るしかない。

今回の『羅(うすもの)』批評誌には、京都の都市にまつわる論考や小説が集まるということで、私は「京都的」だと思う書き手のひとりである西川さんの文体に迫ってみたのだった。それは東京的な文体への挑戦でもあるように思うのだった。

直感でしかないのだが、西川さんの研究を追いかけることは、自分の探したい文体やテーマに近しい気がして、そういう意味で、何度も著作を読み返したい書き手のひとりになったのだった。

というわけで『羅(うすもの)』、ぜひ読んでみてください、の回でした。そして私はもう少し西川さんの研究については考え続けたい。

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