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2020.5.10 インプットなんて言わないで

インプットってだれが流行らせた言葉なんだろう、とよく思う。

「インプットが足りない」「インプット期間にしたい」という言葉をしばしば目にする。会社でもSNSでもたまには本のなかにまで出てくる。見知らぬ女の子から、知ってる男の人まで、たくさんの人が使って言う。たぶん今の形での「インプット」という意味が生まれたのはここ10-20年のことではないかと私は思っているのだけど、どうなんだろう。

インプットがあって、アウトプットがある。そういう循環構造が世の中には存在している、という考え方に基づいた言葉だ。

なんとなく言ってることはわかる。なにかを生み出すとき、表現するとき、伝えるとき、「インプット」というかいわゆる自分が見てきたものや読んできた情報を使うことは多い。本を書く時も、「ああいう本が書きたいな」とじぶんが読んだものをもとにして考えることはある。から、言ってることはわかる。

でも、べつにアウトプットするためにインプットしてるわけじゃないもん、と拗ねている自分がずっとどこかにいる。


だってそう思いませんか!? 小学生男子が週刊少年ジャンプを買いに走るのは、鬼滅の刃の呪文が役に立つからなのか!? 三谷幸喜の『十二人の優しい日本人』がYoutubeで公開されて喜ぶのは、陪審員制度について学べるからなのか!? 本や漫画を読んだり、映画やドラマを見るのは、それ自体私にとって生産活動であって、アウトプットのための準備期間なんかじゃ、ないんですけど!? と、キレそうになるときがある。

ま、まあ私にとっては生産活動で、他の人にとってはインプットで、それでいいやんけ……どうどう、と言われそうなのだが。それでも、いやアウトプットすることからも知識を得ることはあるし……そこって分けられるものじゃないじゃん……とかもごもご呟きたくなってしまう。

単純に、私が好きなものを「インプット」とひとまとめにしてしまうと、その言葉からこぼれおちてしまうことが、苦手なだけなのかもしれない。


以前、漫画家のおかざき真理さんが「好きなことを続けるには、金銭を介在させて仕事に組み込んだほうが楽」とインタビューで答えてらっしゃったのを読んだことがある。

いわゆるアウトプットと呼ばれる作業であっても、インプットと呼ばれる作業であっても、それが金銭を発生させれば仕事になり得る。仕事になるだけで社会性も担保され、人とのつながりもつくるんだから、社会って現金だよな、と、思ったりする。


おかざき真理先生のインタビュー。超人のよーな仕事量……。


いつもありがとうございます。たくさん本を読んでたくさんいい文章をお届けできるよう精進します!