正解

薄いガラスを隔てた先は茹だるような暑さなのだろうなと思いながら、人類で一番の発明であるエアコンの恩恵を受けつつ通知の来たスマホに目を落とす。
そこに表示されたのは見慣れた坂本という名前だった。少し前までだったら何の躊躇いもなく既読のマークをつけていたが、今は状況が違う。

大学に入学して3ヶ月経った坂本は大学のどのコミュニティにも上手く馴染めないことをSNSで嘆いていた。その鬱憤を晴らすべくでかい顔のできる相手である俺に優越感を味わうため連絡しているのが見え透いている。
坂本がどれだけ大学を煩わしく思っていたとしても、浪人生である俺にとっては羨ましいものなのだ。

俺が第一志望どころか滑り止めにすら落ちたことがわかったあの時からちょうど4ヶ月が経った。4ヶ月前からうざったい耳鳴りが止まらない、俺へ危険を知らせる警報のように絶えず鳴り響いている。ついこの間までは俺が医学部に入ると期待していた両親は今では腫れ物を扱うように、どころか触らぬ神に祟りなしと思ったのか、俺がリビングに行くたびにそそくさと家事を始める母親に俺が現役だった頃以上にテレビの音量を下げる父親、気を遣わせていると分かっていても、その気の使われ方がうざったくて耳鳴りなんか可愛いもののように思えてくる。
なぜ宅浪することに決めたのか後悔しても先に立たない、心なしか4ヶ月前より薄暗い部屋の片隅で今日もルーズリーフにシャーペンを走らせながらも、その内容に思うように身が入らなかった。

宅浪ってのは圧倒的に孤独である。
そもそも浪人生は高校にも大学にも属していない宙ぶらりんな存在で、社会の歯車に参加していない。そして予備校に通うこともなく家で一人で誰とも関わることのないまま勉強に励んでいると少しずつ感覚が麻痺して行くような気がする。
少しでも社会と繋がるために夜に眠り朝に起きる生活は続けていたし、手元には無限の情報とコミュニティの広がるスマートフォンがあった。勉強の妨げになるスマホを手元に置き続けているのはどうかとも思うが、勉強にも使えるからと理由をつけては毎日スマホに数時間無駄な時間を割いていた。

今日も例外ではなく、アイコンをタップしてアプリを起動させる、そこには浪人生という肩書きを持った自由に使える時間を膨大に抱えた人間が、そのあまりに余った時間をふんだんに使って考え抜いた呟きを次から次へと投稿している。“浪人界隈”と名付けられたこの界隈には人を貶めることで笑いをとって優越感に浸っているユーザーが掃いて捨てるほどいる。本当に大学に合格する気があるのか?というようなこいつらをみて俺はさらに優越感に浸っている。
坂本のことを批判していたが、本質的にやっていることは変わらない。どころか五十歩百歩の人間の粗を見て優越感を感じている俺の方が下劣な人間なのだろう。それが分かった上で止めることができない、画面をスクロールする手は止まらない。
『近所のFラン大学のバカがマンコ連れて大声上げながら歩いてたから俺は東大志望だぞって叫んできた』とつぶやく、もちろんそんな事実はないし俺の志望は東大でもなく、外出どころか今日は一度も声も出していない。女性のことを性器で呼びわざわざ大学のランクを引っ張り出して有る事無い事並べればこの界隈の人間からいいねがもらえる。こんなことで満たされている承認欲求に我ながら呆れ返っている。

通知が来る。坂本からの追いメッセージでもなければ、界隈の人間からの称賛の声でもない。アプリのDMの通知だ。そこそこのフォロワーもいるし、リプライでのやり取りをしたことのあるユーザーも少なくないが、わざわざDMでメッセージを送って来られることはほぼ無いので訝しみながらも内容を確認する。

『友達になりませんか』

そう書いてあった。
正しくは俺のツイートがお気に入りなことが合わせて書いてあった。しがない浪人生、少なくともこのアプリの中には掃いて捨てるほどいる浪人生のなぜ俺をチョイスしたのか全くわからなかった。
詐欺をするにしても他にも相手がいただろうし、俺は一度も友達になりたいと思われるような呟きをしたことが無いことだけは自負できる。
逡巡の後に一つの可能性にたどり着く、坂本だ。坂本のように俺みたいな社会からはじかれた存在を見て笑いたい自分より下の立場の人間を見て安心したいのだろうと思った。思っただけならまだ良かった。インターネットという顔の見えない環境からか坂本のメッセージにまだ既読をつけていない後ろめたさからか、DMの主に噛み付いてしまった。

『浪人生を馬鹿にして気分良くなりたいだけなら他を当たれよ、透けて見えてるんだよな、そんなキモい人間性だから友達ができないんじゃないか?』

送信ボタンを押すまでが怒りのピークだったようで、その後は時間が経てば経つほどあんな些細なことにマジギレした自分に対する嫌悪感が勝っていった。
自分でも被害者妄想が激しすぎることに気付いたからである。DMの主が多少なりとも面白がって俺にDMを送ってきただろうという推測を曲げる気はサラサラないが、相手はまだ一言もバカにしてきてなんかいなかったので、俺が一方的に罵倒したのは明白である。
その日は後味の悪さを噛み締めながら就寝についた。

目を覚ますと案の定坂本からの追いメッセージが来ている。気は乗らないが返信くらいはしないとなとスマホをタップしたのと同じタイミングで見慣れない通知が俺の指を阻み、俺の意思とは関係なくアプリが起動する。
少しのローディングののちに表示されたのは昨日のDMの主からの返信だった。

『不快にさせたのならごめんなさい。僕はただあなたと話したかった』

昨日の自分の愚行を思い出し、それに対して怒るでも無く悲しむでもないDMの主に多少の好感を抱いたが、時はすでに遅し、その好感を抱く元となったの俺の発言は、相手が嫌悪感を抱くには十分すぎるものだ。自分でもちょろいとは思うが、昨日のDMの主に対する不信感を忘れ

『期待はずれですまん』

と俺なりの謝罪を画面に打ち込んだ。
ここで素直に謝れないのも俺の悪いところなのだろうが簡単に治れば苦労はないし、こんな事にはなっていない。とナーバスに輪をかけるようなことを考えていると

『そんなことはありません。今日も勉強ですか?』

間髪入れずに返信が来た。
朝の忙しい時間帯に俺へのメッセージを送る姿を想像しようとしたが、そんな姿想像できるはずもない。

『当たり前だろ。お前は?』

俺が何をしているのかを気にするDMの主が何をしているか気になってきた。その疑問をぶつけるべく質問したが、DMの主の名前すら知らない事に思い当たった。
取り急ぎ“お前”と呼んだが、普通だったらハンドルネームが記載されているはずの位置には記号が表示されてるのみである。
丸。
○。

『名前は丸でいいのか?』

相手の返信を待たずに続け様に疑問を投げかける。するとまたもやこんな時間だって言うのに少しの間もなく返信が小分けに返ってくる。

『僕はニートですよ。』
『やることはネットサーフィンぐらいですね』
『マルとでもお呼びください^^』

ニートとネットサーフィンという言葉に今までのやりとりの合点がいった。
暇を持て余した人間であれば俺に興味を持つのもわからなくもない。いや、九割九分九厘はわからないが。そしてマルという名前、表記は丸ではマルではダメなのか、何かこだわりがあるのか気になりはしたが、聞くほどでない疑問を持ちつつ
『ニートできる環境が羨ましいよ』
と、何だかよくわからない皮肉を送る。
『悠々自適です』
皮肉としってか知らずか流すようなことを言い、その後のやり取りもマルは俺の機嫌を伺うようなことを言い、それに対して俺は自分でも増長しているなというような返しをしていた。
マルはニートで暇を持て余している、世間的に見れば俺より地位が低い人間だと思うと謎の安心感を覚えた。坂本が俺に対して抱いていたものと一緒だろう。

そんな世間話とも言えないような薄っぺらい会話を坂本への返事もあんなにうるさかった耳鳴りも忘れて、一週間は続けただろうか。
俺のマルに対しての興味は増す一方だった。最初は何故俺にかまうのかという思いだったが、次第にマルという人間がどのような顔をしていて、どのような服を着て、どのような人間関係を築き、どのように生活しているのかという興味に変わっていった。

そしてマルはそれを見計らったかのように
『明日、あなたの住んでる場所の近くに行く用があるんですが、ご飯でもどうですか?』
断る理由を思いつかないような誘いを持ちかけてきた。志望大の話から住んでいるおおよその場所は伝えていたがこんな辺鄙な場所に来る用なんて…と多少の訝しみを覚えつつも、好奇心の方が勝ってしまい
『何時ごろの予定?』
と、一もにも無く時間を確認した。
『12時に駅前はどうですか?』
『問題ない』

とんとん拍子に予定は立っていき、明日マルと会うことが決まってしまった。
マルに対して格好付けたいという気持ちがある。ニートのマルよりおしゃれな服を着て余裕のある立ち振る舞いをしなければと謎の義務感を覚え、数少ないクローゼットの中身を吟味することにした。
今日は勉強に手がつかない。

ちょっと気合を入れすぎたかなという一張羅に袖を通し、髪をセットし、いつも付けている度の強いメガネだけが少し浮いているような気がするが、コンタクトなんて持っていないからしょうがない。
俺なりのおしゃれをして駅前に向かう、心なしか足取りが重い。緊張しているのだ。
自分に対して言い聞かせる、相手はニートで自堕落に過ごしているだけの男で何も気負うことはない。

駅前に付き、DMを確認するマルから
『付きました!』
とのメッセージを確認して周りを確認する。ジーンズに白いTシャツを着ているらしい。しかし、周りには女性と老人、数人で固まった男性集団、その他諸々いたが、マルらしい姿は見受けられない。

『どこにいる?』
とメッセージを送った瞬間、肩を叩かれ
「こんにちは!」
男性集団の1人が溌剌とした笑顔で挨拶をしてくる。呆気に取られているとその男は矢継ぎ早に
「ぼくです!マルです!」
と続ける。

俺はてっきり小汚い男が来ると思っていたのに、爽やかな青年が、しかも団体でいる。どういうことだ。周りの人間は誰だ。そんな思考が脳内を駆け巡っていたし、駆け巡るどころか最後の部分は声に出していたらしい。

「実は大学のサークルの小旅行でこっちに来てて、あっ、ご飯は別々なので安心してください!どこかおすすめありますか?」

俺は今すぐにでもこの場から離れたかった。
よくわからない男達から不思議な目で見られている。恥ずかしいという感情で、何故何が恥ずかしいのか自分でもわからなかったが、兎にも角にも恥ずかしいという感情でいっぱいになる。

「おすすめなかったらさっき通ったお店気になってて〜」

笑顔で続ける青年に半ば引っ張られるような形で足を進める。
俺はしっかり返事ができているだろうか、自分の体が自分のものではないかのような感覚に陥る。店内に入ってメニューをめくり、店員に伝えたであろう食事が出てきて口に運ぶ、その間絶え間なく会話が半一方的に続く。


気づいた時には俺は家の椅子に座っていた。
食べた定食がどんな味だったのか、マルがどんな顔をしていたのか思い出すことができない。

覚えているのは、想像とは真逆な爽快さを持ち合わせたマルが俺の志望大学よりワンランク上の大学の四年生で就活が終わり暇を持て余しているということ、おしゃれに服を着こなし気の置けない友達と遊んだついでに俺を訪ねたことを覚えている。

マルは俺より社会的に地位が低いと思っていた半日前の自分を殴りたい、殴って殴って殴り殺したい。
俺がマルに勝っているところなんて一つもなかった。

きっと彼女だっていたことがあるだろうし、浪人なんてしたことがないだろうし、友達がいなくて悩んだことも昼食を1人で食べる気まずい思いも、体育大会で声を出して応援することを憚ったことも、何一つ経験していないだろう。

所詮俺が大きい顔をできるのはインターネット上だけだったのに少し欲を出して現実の世界に出てみると自分の見窄らしさを目の当たりにする。今まで何度も思い知らされてきたはずなのに、また勘違いをしてしまった。俺より下の人間なんていないのかもしれない。全てを周りの環境のせいにして嫌なことから目を背け勘違い思い込みで自意識を保ってきた結果がこれだ。薄暗い部屋にスマホの通知がぼんやりと光る

『今日は楽しかったです。また機会があれば』

名前を見なくてもわかる。
マルからのメッセージだろう。そのメッセージに返信することはもうない。DMを開かないままアカウント削除のボタンを押す、そして続け様に新しいアカウントを作る、必要な情報を滞りなく入力する。名前は○だ。マル。俺が思い描いていたマルだ。ニートでろくに家から出ず、人と喋る時に目を合わせられず人に媚びへつらうことしかできないマル。マルが居ないのなら俺がマルになればいいだけ

マルの部屋に参考書なんて似合わない。浪人生だった俺ももう居ないんだから。
ちょうどいい、明日は資源ごみの日だ。そう思いながら半分も進んでいない参考書数冊をひとくくりにまとめた。
耳の奥からいつの間にか鳴り響くキーンとした音はもう五月蠅くなかった。

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